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多様性を受け入れる

↑前回のつづき

多様性という言葉は単に状態を表しているだけなのでケチのつけようもないが、大きいほうが偉いという暗黙の了解があるせいで傲慢さが見え隠れしてしまう。

少数派を受け入れてあげよう。

と、多数派はナチュラルに上から目線になる。悪気がないのはわかっているし、僕が偏屈であることも認めるが、何かがズレていると感じる。

多様性を受け入れることと少数派を受け入れることは違う。自分たちのいる世界に異端を迎え入れよう、居場所を用意しようという発想は間違っていると思う。性質の異なるものをひとつの入れ物に収めてもうまくは行かない。

それは多数にとっての我慢であり、少数にとっての腫れ物扱いである。このくらい我慢しろ!心の狭い者は去れ!となるようでは多様性社会も程遠い。

多様なのは人間ではなく、世界のほうだ。たとえばトランスジェンダーがありのままでいられる世界がある。その世界の存在を認めることが多様性を受け入れるということではないかと考える。

あくまで論理空間の話をしている。物理空間は依然としてひとつの入れ物しかないのでトイレや公衆浴場の問題には対処しなければならないだろう。

しかし、そういう世界があってもいいとみんなが思うだけでも苦しむ人は減る気がする。

↓つづく