見出し画像

思考のプロセスに目を向けるためのエクササイズ 〜 「批判的」に読むために必要なことは?

以前の記事にこんなことを書きました。

哲学書を読むときは、そこに「何が書かれているか」(コンテンツ)ではなく、そこで思考が「どのように積み重ねられているか」(プロセス)に目を向けることが大事。

ところが、映画やドラマの副音声解説の「この場面、編集をものすごく工夫しているんですよ」みたいな説明は、哲学書(哲学書にかぎった話でもありませんが)のどこにも書かれていません。

そのため、何に目を向け、どのように問いを立てているのか? その問いへの答えをどうやって見つけているのか? 得られた答えから、さらにどんな問いが生まれているのか?

そうした点について、読み進めながら自分で考えていく必要があります。

さらに、立てた問いから答えを導きだすまでに、どんな前提が立てられているのか? くわしく検討することなく、「当然そうなるだろう」と考えられている暗黙の前提条件があるとすれば、それは何か? なんてことも考える必要があります。

このように、思考のプロセスに目を向けながら文章を読んでいくためには、具体的に何をすればいいのかにいて考えてみたいと思います。

(あらかじめお知らせしておきますが、この記事にはエクササイズの答えは書いてありません。「これを読んで、みなさんで考えてみてください」で終わる、きわめて無責任な内容です)

ソクラテス「メノン」の「探究のパラドックス」

題材として選んだのは、プラトンが書いたソクラテスの「メノン

ここには、政治家を志す前途有望(でイケメン)の青年、メノンとソクラテスとの間で交わされた対話が収められています。

短い話だし、「何かを知るとはどういうことなのか?」「何かを知る過程で何がどのように変化するのか?」といったことに対するソクラテスの考え方がとてもよくまとまっているので、ソクラテスを知るうえでの格好の入門書です。

対話のテーマは、(指導者に求められる)「徳」について。

この対話、指導者に求められる「徳」は、人に教えられるものなのかという問いからはじまります。そして、そもそも「徳」とは何かを考えていくなかで、よいもの、望ましいものを探し求めるためには、それがよいもの、望ましいものであることを知っていなければならないという話になります。

でも、何かがよいものである、望ましいものであると分かっているなら、探し求める必要はない。そして、何がよいもの、望ましいものかが分からないのなら、探し求めても「これだ!」と分からないことになる、という「探究のパラドックス」が生まれてきます。


悪いものを欲するとは、何を欲することなのか?

以下に示しているのは、この対話の一場面です。まずはこれを読んでみてください。

ソクラテス きみははたして、美しい⽴派なものを欲する者は、よいものを欲していると⾔うだろうか?
メノン ええ、もちろんです。
ソクラテス その場合きみは、いろいろな⼈がいて、或る⼈々は悪いものを欲するが、他の⼈々はよいものを欲するという意味で⾔っているのかね? ではきみ、⼈は みなそろってよいものを欲していると、きみには思えないのかな?
メノン たしかに、そうは思えませんね。
ソクラテス 悪いものを欲する⼈もいる、と⾔うのだね?
メソン ええ。
ソクラテス そういう場合、⼈々は、その悪いものをよいものと考えて、それらを欲するときみは⾔うだろうか。それとも⼈々は悪いということを知っていて、それにも かかわらずそうしたものを欲する、と⾔うのだろうか?
メノン わたしには、その両⽅の場合があるように思います。
ソクラテス するときみには、メノン、悪いものが悪いということを知っていながらしかもなお、そうしたものを欲するような⼈が、現にいると思えるのだね?
メノン はい。もちろん。
ソクラテス その⼈はそういう悪いものについて、何を欲するときみは⾔うのだろう か? 悪いものがその⼈のものになることを欲する、と⾔うのではないだろうか?

と、まあこんな具合に話が進んで、結論はこうなります。

何かが「悪いもの」である、つまり「望ましくないもの」だと分かっているのなら、それを欲するわけはない。だから、誰かが何かを欲している場合、それを「よいもの」だと思っていなければツジツマが合わない。

どうでしょう、納得できます?

この結論によれば、「悪いとは知りながらも、(たとえば意志の弱さから)ついつい○○をやってしまった」みたいな状況は存在しない、ということになります。でも、そういう状況もありそうな気がするな、と思いませんか?

では、なぜこうした結論が生まれることになったのでしょうか?

サラッと文章を読んで「そういうものなのか」と思えたとしても、よく考えるとちょっと違和感があるなとか、なんだかモヤモヤするぞと思えることがあります。

そうした違和感やモヤモヤをそのままにしないこと。それが思考のプロセスに目を向けて読み進めるための第1歩です。


「批判的」に読むために必要なことは?

テキストを読み進めるにあたっては、「クリティカル(critical)に読むことが大事」ということが書かれた英語が、「批判的に読むことが大事」と訳されることがあります。

「批判的」に読むという日本語をみると、「反論する」とか「足りない点を指摘する」といったことをやる必要があるように思えてしまいますが、ここで本当にやらなければならないのは、「判断を下すために、客観的に分析・評価を行う」ということ。

大事なのは客観的な分析・評価。「反論するぞ」とか「足りない点はどこか」といった姿勢ではなく、客観的に何がどのように考えられているのかをしっかりと見きわめる必要があります。

この対話では、「美しい⽴派なものを欲する者は、よいものを欲しているといえるのか?」という問いから思考がはじまり、その問いに「その通り」という答えが得られる。すると、「だとすると、これは正しいのか?」という新たな問いが生まれ、その答えが得られたら、さらなる問いがつながっていく、といった具合に話が進んでいきます。

こうした問いに対するメノンの答えは、この文章を読んでいる自分の答えとまったく同じでしょうか? 「ちょっと違うな」と思う場合、なぜ・何が違うのでしょうか?

同じようにソクラテスの問いにも目を向けてみましょう。

メノンから答えが得られた後に、ソクラテスはどのような問いを立てているでしょうか? そうしたソクラテスの問いは、すべて納得できる問いでしょうか? また、メノンの答えを聞いて、「だとするとこういうことになる」とソクラテスが語っている部分は、納得のいく結論になっているでしょうか?

こうした点に目を向けながら文章を読んでいくことが、思考のプロセスに目を向けながら文章を読むということであり、いわゆる「批判的に読む」ということです。

そのためのスタート地点は、違和感やモヤモヤ。文章を読んでいて、「え、そうなるのか?」とか、「なんとなく納得できないぞ!」ということを感じたら、そうした違和感やモヤモヤをそのままにはしない

もう一度、文章に立ちもどって、どこまでは完全に納得できることなのかどのような問いのつながりに違和感があるのかどの時点でのどんな結論にモヤモヤを感じるのかに目を向け、問いの立て方や結論の導き方が十分だといえるのか? 不十分だとしたら何が不十分なのか? それ以外に考えていく方向性はないのか? について考える。

そうしたことを考えながら文章を読むことが大事なんですね。

というわけで、ここで紹介したソクラテスとメノンの対話、どんなところに違和感やモヤモヤを感じましたか? そうした違和感やモヤモヤ、二人の対話の流れのどんなところから生まれてきていると思いますか?

(と、最初にお知らせしたように、この記事は違和感やモヤモヤを残したまま終わる、きわめて無責任な内容なのです)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?