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242 氷山の一角

余計なことがついてくる

 私もなんだかんだ、さまざまな書籍に関わってきて、いつも課題として与えられるのは「それをどうわかりやすく表現するか」だった。
 結論から言うと、「わかりやすく表現する」ことは、誤解を招くだけであまり得策ではない。わかりやすさと読みやすさとは似ているものの、かなり話は違ってくる。読みやすいからと、わかりやすいとは限らない。とても読みやすいけれど、簡単には理解できない本の方が、おそらく世の中には多いだろう。
 読みやすくするために、わかりやすく表現したい、と考えてしまう。これは私も陥っていた発想だった。
 よく「氷山の一角」と言う。海に浮かぶ氷山は、見えている部分より海面下の見えていない部分の方が圧倒的に大きい、とするイメージがあって、「この見えているところがAです。しかしAの見えていないところはその何倍も大きい」といった言い方をする。Aには説明したいことを適当に入れてみるといい。イラストも入れるといいかもしれない。
 ところが、いまは地球温暖化による影響を真剣に議論している。氷山についての話題は、どうしたって地球温暖化に結びつきやすい。20世紀の頃であれば、タイタニック号の遭難事件を連想するなどして、多くの人は素直に氷山のなんたるかをイメージしやすかっただろう。それも、21世紀となるとそうはいかない。もちろん真っ先に普通に氷山を浮かべる人は多いと思う。ただ、書籍というものは、どんな風にも解釈できる可能性を持っていて、だからこそ難解になりやすい。パッと氷山をイメージして、そこに地球温暖化イメージも加わってきたら、それはもうただ面倒なだけである。
 わかりやすく表現しようとして、かえって余計なものがついてきてしまう。引き寄せてしまう。それでは本末転倒、とまではいかないにせよ、余計なことはやっぱり余計でしかない。

『センスの哲学』(千葉雅也著)のわかりやすいさ

 『センスの哲学』(千葉雅也著)は、その点でとても読みやすく、なおかつわかりやすい本になっていた。
 著者は「なにより、読みやすく、役に立つ本であってほしいからです」と「はじめに」で明記している。その通りの本である。そして私にとっては共感することが多い本だった。
 著者は哲学者であり大学で教えており、なおかつ小説家で、そもそもは芸術家志望だったと言う。そうした背景によって、生まれるべくして生まれて来た本、と言えそうだ。
「場面の描写も、人物の思いも、小説としてよくできているという基準ではなく、自分の身体感覚に従って、書けるように書く──身体から響いてくる偶然性に従って。」(「届かないズレと超過するズレ」)
 といった具体的でとてもわかりやすい表現が多い。しかも、私のような者にも勇気を与えてくれる。ある種、ありがたみさえ感じさせる本だ。こうして少し抜き読みしても、もう一度、頭から読みたいな、と思わせてくれる。そういう本に出会うことは滅多にない。
 この本を読んでいて、「わかりやすさ」は表現の工夫といった最終的な技術以前に、その本で言いたいことを著者自身がさまざまな観点から見通していることによって、自然に生まれてくるのではないか、と感じた。つまり、以前、私が直面していた「この原稿、もっとわかりやすくできませんか」的な、後付けの、小手先の技術ではカバーしきれない、本質に関わることなのだ。それは、読者として素直に「もう少し噛み砕いてください」と著者にお願いするのとは別に、もっと太い幹のような、柱のような構造物として存在しているに違いない。少なくとも著者の頭の中では。
 そこから自然にあふれてくる「わかりやすさ」こそが、誰にとってもわかりやすい表現へとつながっている。後処理でなんとかするのは不可能な話なのだ。

この絵はここで一応、完成。




 
 
 


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