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この現代日本に生きる自分にとっての「自由」あれこれ

「自由」には分類があります。

先日の記事で「フリーダム」「リバティ」
(あえてカタカナ英語)の違いを書きました。

◆フリーダム:先天的な自由・心の自由
◆リバティ:後天的な自由・社会の自由

分類すればこうなりますが、
必ずハッキリと分かれるわけではなく、
重なり合っていたり、
区別できなかったりする部分もあります。
ゆえに、日本語では一緒くたに
「自由」とまとめられています。

また「消極的自由」「積極的自由」
という分類もあるそうです。

◆消極的自由:〇〇からの自由
◆積極的自由:〇〇への自由

何かの行為が勝手に決められてしまう。
自分の自由な判断だけでは決められない…。
そんな状態「からの」自由!
これがネガティブ・リバティ
直訳すれば「消極的自由」です。

一方で「個性」を実現する、
自分とはこれだ!と表現できる。
そんな状態「への」自由!
これがポジティブ・リバティ
直訳すれば「積極的自由」になります。

フリーダム/リバティの分類は、
いわば自分の「中」か「外」かですね。
「どこ」の自由?という話。

消極的自由/積極的自由の分類は、
いわば「受動態」か「能動態」かの違い。
自由の「矢印の向き」の話…。

ただ先述しましたように、
ハッキリ分けられるわけではない。
あくまで仮定として分けるとしたら…
という思考上の分類に過ぎません。

これらの分類を踏まえた上で、
私にとっての「自由」とは何か…?
色々と考えてみたのが本記事です。

「自由の反対語」から考えましょうか。

不自由、規制、制約、制限、強制…。
「制」の字が多いですね。
制する。自由な行動に待ったをかける。
道路における「速度制限」などは
まさにそれ。200キロでぶっ飛ばせない。

そう考えると、自由を縛るのは
「法律」では?という考えに結び付きます。
そう、自由を保障するのも法律なら、
行き過ぎた自由を制限するのもまた法律
です。

例えば「表現の自由」という、
法律で保障された自由があります。

ただこれは、他人の自由を侵害しない、
言いかえれば、誰かに損害を
与えない範囲の中での自由になりがち。
自分は良くても他人には良くないような
適切でない表現は処罰の対象になる…。

より法律的に言えば、
心の「中」に留まるだけなら基本、自由。
しかしそれを「外」に出すとなると、
誰かの自由を侵しがちだから
制限される
ケースが多々ある。

では、他に自由を縛るものはないか?

…例えば「お金」ですよね。
お金がないと自由にはできない。
「ケーキが食べたい!」と思っても、
ケーキの費用が払えなければ食べられない。
「大学に通いたい!」と思っても、
能力の他に、学費が必要になります。
お金がないと自由に行動できない…。

ただお金があればすべて自由かというと
そうでもないですよね。

古めの例えで恐縮なのですが、
名作漫画『めぞん一刻』には、
三鷹さんという絵に描いたような
金持ちの男が出てくるんですよ。彼が言う。

「お金じゃ愛は買えないけれど、
お金があった方が愛が潤います」

このセリフに、貧乏学生の五代君は
「何をキザなことを…」と反発しますが
一つの真理をあらわしているようにも思う。
お金で全てが自由になるわけではない。
しかし自由になり、潤うこともある…。

ここまでを「中間まとめ」します。

◆自由の反対は「制限」
◆「法律」で自由は保障されるが、
かつ制限もされている
◆「お金」で自由は潤うことが多いが、
自由にならないものもある

さて、ここから具体的なケースで考えます。

あなたが会社に勤めていると仮定します。
全てを「自由」にできるか?というと、
色々と「制限」がされますよね。

例えば、勤務時間が決められている。
職場や業務内容やノルマがある。
決まった時間や場所に出勤。
タスクが決められている…。

「制限」が多い。
しかし、全員がそうなのかというと
そうではありません。
比較的「自由」な人もいる。

例えば、経営者。
従業員に比べて「自由」に振る舞える。
なぜなら、組織の中では上のほうにいて、
権限、決定権を持つ人だから。

もちろん、経営者も色々です。
雇われ社長だとオーナー会長の
言うことを聞かなければいけない。
上場企業の経営者であれば、
株主の言うことを聞く必要がある。

ですが、従業員よりは比較的「自由」。

その代わり「責任」がのしかかります。
従業員よりも、ずっと重い責任…。
そう、自由には責任がセットなのです。

もう少し小さな話をします。
個人の食欲レベルの自由について。

例えば、真夜中にポテチを食べたい!

…食べるのは「自由」。
しかし食べた責任は自分の身体にはね返る。
胃がもたれる、体重が増えるかもしれない。

しかし、もし極度の飢餓状態にあって、
ポテチしかない、としたら?
そりゃ、生きるために食べます。

「制限」という話で言えば、
私たちはみな生き物ですから、
本能や欲求に「縛られている」。
そもそも自由ではない。

飢餓を避けるために食べる。
生の自由を得るために…。

余談ですが、
武田泰淳(たけだたいじゅん)の作品に
『ひかりごけ』という小説があります。
詳細は(本記事内では)書きませんが、
食べてはいけないものを食べることにより
生き延びた人のことを書いた作品。
選択肢がそれしかない「制限」の中で
それを選ぶのは「悪」か…?

話を元に戻します。
私は今、二つのケースを書きました。

◆会社(集団)における自由と責任と強制
◆本能(個人)における自由と責任と強制

そう聞くと、たぶん、読者の皆様の中では、
今までに経験してきた様々な場面が
思い浮かぶのでは?

比較的「自由の利く」立場か、
比較的「制限された」立場かによって、
思い浮かべることは違う。

本能、欲求、体質、食癖、アレルギー、
身体の「制限」も、人によって千差万別。
一生ポテチを食べなくていい人もいれば
禁断症状が出る人もいるかもしれない…。

環境にもよります。

組織内の人員に余裕があれば、
比較的「自由」な試みができますが、
余裕がなければルーティンを強制される。

家族内で、子どもや高齢者などの
比較的守られるべき存在がいれば、
己の自由への欲求は二の次にして
お世話をしなければいけない…。

(ポテチも時には譲らなければ)

まとまりませんが、最後にまとめます。

本記事では、私なりに「自由」に
関連するキーワードを挙げました。

心の中の自由。社会(環境)の自由。
〇〇からの自由。〇〇への自由。
制限。法律。損害。お金。責任。
個人。他人。組織。家族。集団…。

読者の皆様にお聞きして、終わります。

あなたは「何から」自由になりたいですか?
自由になったら「何を」したいですか?
そのために必要なものは?
「自由からの逃走」をしていませんか?

※「自由と責任」については、
「株式会社モノサス」の事例もぜひ↓

※フリーダムとリバティの違いはこちら↓

※自由についてのコメントと
回答の紹介記事はこちら↓

砂押 美穂さんの、文学部でのご投稿、
【哲学分科会を立ち上げてみます!!】
の記事はこちら。

第1回目は「自由」をテーマに、
「今の社会、この現実で生きている
自分にとっての自由とは…?」を
ざっくばらんに考えていく…
というご予定とのことです↓

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