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先日『自由』の訳語についての記事、
フリーダムとリバティの違いについて
LinkedInで投稿しましたところ、
たくさんのリアクションや
コメントをいただくことができました。
ありがとうございます!

本記事では、そのコメントの一部のみを
紹介しつつ、もう少し『自由』について
考えてみたい、と思います。


なお、あえてメンションはつけず、
コメント内容のみを引用紹介いたします。
LinkedInのコメント欄に貼ったリンク、
あるいは本記事の下部のリンクから、
元記事をお読みいただければ嬉しいです!

(ここから引用)

『フリーダムとリバティの違いを
あまり深く考えたことがなかったので
とても良い気付きになりました。

欧米は自由は勝ち取るもの、
日本は自由は与えられるものと
認識している人が
多いのではないでしょうか?

だから日本人はフリーダムのほうが
馴染みが深いし、好きな言葉!

でも自由には、責任を伴います。
だから他人には迷惑を掛けない。
マナーを守るという概念も出てきます』

(引用終わり)

元記事では、二つの違いをこう表現しました。

◆freedom(フリーダム)
「持って生まれた自由」という意味。
「先天的・受動的」な自由。

◆liberty(リバティ)
「自ら勝ち取った自由」という意味。
「後天的・能動的」な自由。

ところが、日本史においては
「庶民が立ち上がって起こした
全社会をひっくり返す革命」
という事例が、あまりありません。

ですので「リバティは与えられるもの」
言うなれば「空気」のようなイメージが
強いようにも思います。

私は、以下のように返信しました。

(ここから引用)

『欧米の『freedom/liberty』と、
日本の『自由』との間には
若干の認識のずれがあるように思います。

おっしゃる通り、日本の『自由』は
元々人間に与えられているもの、
フリーダムの意味合いのほうが
馴染みが深い
、ですよね。

加えて、迷惑、字だけ見れば
『迷い惑う』ことを
日本では忌避する傾向があります。
他人に迷惑をかけるな…と。

となると、自由、フリーダムに
したい人に対して、
迷惑はかけるな、と言われがちです。

特にフリーダムを「志向しない」人が
多い集団においては、
『他人に迷惑がかかるから
フリーダムにはするな』
という
規制がかかりやすいように感じます。

もちろん他人に対して
犯罪的な被害を与える
フリーダム、マナー違反などは
断固処置すべきですが、

日本では他人に『迷惑』をかけない
フリーダムにまで、規制がかかる
傾向もまた強いように思います。
『集団による個の抑制』ですね。

考えるヒントになりました!
ありがとうございます』

(引用終わり)

フリーダムにしたい人が「多い」集団では
「お互い様」という懐の深さがあり、
比較的フリーダムに過ごしやすいですが、

そうではない集団においては
「あいつばっかりフリーダムにしやがって!」
という妬み、排斥が起こりやすい。

そんな面を書いてみました。

では、次のコメントに行きます。

(ここから引用)

『freedomとlibertyの違いについては
私自身もあまりしっくり
きていなかったのですが、
freedom=内面(私)の自由、
liberty=政治的(公の)自由
ということでしょうか?

とはいえ
「個人的なことは政治的なことである」ため
両者の境界は明確ではなく、


例えば性的指向の自由は
内面的なfreedomであると同時に、
政治によるセクシュアリティへの介入に反抗し、
結婚に関する法制度の改正を求める
側面があるのでlibertyとも言えますね。

自由をfreedomとLibertyに切り分けてみたり、
分けきれない領域を
行き来してみたりする
ことで、現代社会を
理解する上ですごく役に立ちそうです』

(引用終わり)

自由はフリーダムとリバティに実は分かれる、
という考えに対し、
そんなにはっきりとは分けられないのでは?
というご意見です。
とても鋭いご指摘だと思います。

私の回答は、こちらです。

(ここから引用)

『おっしゃる通り、
◆freedom=内面(私)の自由
◆liberty=政治的(公の)自由
という意味合いが(原義的には)強い、
と考えられます。

しかし同時に、
『個人的なことは政治的なこと』
『境界は明確でないこと』も
また言える
、と思いました。
はっきり分かれるのではなく
グラデーションというか
スペクトラム的というか…。

「人間は社会的動物である」という
観点から言えば、
個人は社会(集団や政治)から
完全に分離、独立することは
あり得にくいですし
(哲学的な仮定上なら可能ですが…)

特に日本においては
個人の自由より組織の論理などが
優先されがちな傾向にある
ために、
完全純粋な自由は生まれづらい。

何よりも、日本語において、
両者ともごちゃ混ぜになって
『自由』という言葉で
大雑把にまとめられている
のが、
その証左だと思います。

ゆえに、
日本語で『自由』と使われる場合には、
使い手と受け手がどのような意味合いで
それを解釈して使っているか?を
確認しておかないと、
齟齬が生まれやすい
ようにも感じました。

>自由をfreedomとLibertyに
>切り分けてみたり、
>分けきれない領域を行き来してみたりする

これは本当に思考訓練になりますね!
人間・世界・言語を理解するための
解像度が増す行為
だと思われます。
私にも考えるヒントになりました!
ありがとうございました』

(引用終わり)

さて、読者の皆様は、どう思いましたか?
「自由」とは、なかなかに奥深い
「沼」のようなテーマだと思われます。

最後にまとめましょう。

本記事は「自由」について書いた記事に
寄せていただいたコメントと、
私の回答を引用紹介してみました。

砂押 美穂 さんの「LinkedIn文学部」の
「哲学分科会」発足記事によると、
エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』
(原題:ESCAPE FROM FREEDOM)

が紹介され、第1回は「自由」について
考えてみる…とのこと。

「自由と責任」「自由と迷惑」
「自由と不自由」
「自由と(集団の)雰囲気」
「自由を支える法律と財産とは?」
「個人の自由と集団(公)との関係とは?」
「自由から『逃走』する人と
自由に『留まる』人との違いは…?」

自由をテーマについて考える時には、
いくらでも『問い』が立てられますよね!

すぐには答えの出ない問いを立て、
自分なりの言葉で考えて発信して
反応を受けることで、
世界や人間への解像度が上がる
と思います。

興味のある方はぜひ、ご自身なりに
考えていただければです。
本記事の下部のリンクから
砂押さんの記事もどうぞ!(宣伝です)

※『自由からの逃走』…聞いたことはあるけど
どんな内容だったっけ?という方のために、
イラストでの解説記事を紹介しておきます。
ご参考までに、ぜひどうぞ↓

※元記事はこちらです。
『「自由」という日本語と訳語』↓

note版はこちら↓

リアクションやコメントを
いただいた皆様、ありがとうございます。

※砂押美穂さんの、文学部でのご投稿、
【哲学分科会を立ち上げてみます!!】
の記事はこちら。
第1回目は「自由」をテーマに考える、
とのことです↓

合わせてぜひどうぞ!

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