首藤久義

言語(国語)教育研究者です。千葉大名誉教授です。楽しく実りある学びと、そのサポートのあ…

首藤久義

言語(国語)教育研究者です。千葉大名誉教授です。楽しく実りある学びと、そのサポートのあり方を、探究しております。「自由短句」を、日々、自由に書いて発信しています。

最近の記事

楽しくない国語を楽しく

楽しくない国語を楽しく という演題で講演します。 副題は「教科の枠を超えて飛ぶ」です。 私の講演の趣旨は次のとおりです。  自由に読むのは楽しい。自由に書くのも、自由に聞くのも、自由に話すのも楽しい。なのに、国語科の授業が楽しくないのは、なぜでしょう?言葉は、教科の枠を超えて、自分のために、自分のやり方で使うと楽しくなります。自分の探究や相手と通じ合うために使うと楽しくなります。そして、生活に役立つ言葉の力が伸びます。それが拙著『国語を楽しく』に書いた「国語の二重カリキュ

    • 敵味方の区別なく愛す

      おまえの敵を愛せ。 と言われても、愛することはできないよ。 敵は敵。 敵からは、逃げるか隠れるか、それができなければ、戦うしかない。 逃げ隠れしたり、だましたり戦ったりしながら、何とか生き延びるしかない。 生き延びるには、敵に寝返って、敵の仲間になるという道もある。 そうこうしながら人類は、ここまで生き延びてきたのではないだろうか。 自分もそうして、ここまで生きてきたのだろう、と思う。 おまえの敵を愛せと言われても、愛することはできない。 ただし、誰が自分の敵であるかを判断す

      • 力を抜くストレッチ

        ストレッチ教室から帰宅した。 今日初めて、 ストレッチ体操の極意は、 力を入れて伸ばすことにあるのではなく、 力を抜くことにある。 と体感することができた。 よかった。 人生にとってよかった。 ストレッチ教室に通い始めて10年余りになるが、 今日初めて気づいた。 これまでの私は、筋を伸ばそうとして懸命に力を入れていた。 これは、教わって気付いたのではない。 経験の積み重ねの中で、ストレッチ多雨想をしている最中に、或ることがきっかけで、ふと気づいたのだ。 そういう発見は、あら

        • ぼくを動かす無限動因

          数えきれない動因が作用し合って動いてる。 数えきれない動因の一つにぼくもなっている。 ぼくの体も精神も。 数えきれない動因が作用し合って動いてる。 数えきれない動因が付いて離れて形を作り、形を変えて動いてる。 宇宙を動かす絶対的な、唯一無二の意志は無い。 数えきれない動因が宇宙を作り、作用し合って動いてる。 ぼくの中にも無限の動因。 ぼくの外にも無限の動因。 それらが互いに作用して、変形しながら動いてる。 ぼくの中から出る動因。 ぼくの中へと来る動因。 それらがぼくの形を作る

        楽しくない国語を楽しく

          「ねがいごと短冊作り」という遊び

          幼児期から小学2年の間に毎年行う七夕飾りの願い事短冊を作る経験を通して、読み書きに親しむ遊びを思い付きました。 その短冊の表には願い事を書き、裏に自分の氏名を書きます。 短冊に文字を書く場合は、自分の氏名や願い事を書く場合は、 ①自分で書ける子の場合は初めから自分で書きます。 ②自分で書けなくても、絵入り平仮名表(筆順数字の順番と各方向の矢印が添えられている)を参照しながら、自分が書こうとする音節の文字を見つけられる子の場合は、絵入り平仮名表の中から目的の文字を見つけて、それ

          「ねがいごと短冊作り」という遊び

          「汚れ無き」って大事なの?

          「マリア・インマクラダ(María inmaculada)」とは、「汚れ無きマリア」という意味だそうです。処女懐胎して神の子を産んだ人です。つまり、○○することなく神の子を宿した人です。 カタカナで見ると似ていると感じられる呼び名に、「マグダラのマリア(Maria Magdalena)」があります。が、その人と「マリア・インマクラダ(María inmaculada)」は別人だそうです。 「マグラダのマリア」は元娼婦と言われていますが、その説には確かな根拠がないと、あるお方か

          「汚れ無き」って大事なの?

          楽しい国語教室実現の道 ―大村はま実践に学ぶ-

          楽しい国語教室実現の道 ―大村はま実践に学ぶ- という演題で講演します。 半年後に千葉大で開催される 大村はま記念国語教育の会千葉大会での講演です。 大会テーマ:国語教室におけるウェルビーイングの実現―大村はま実践に学ぶ- 日時:202411月30日(土) 9:00~16:40  終了後には懇親会も計画されています。 大会参加費:一般:2,000円 会員:1,000円 学生:500円  懇親会参加費:5,000円 内容は、基調提案・実践発表と協議・対談と協議・講演・展望です。

          楽しい国語教室実現の道 ―大村はま実践に学ぶ-

          発想の種である。指導方式ではない

          私が拙著『国語を楽しく』で提供しているのは、指導方式ではない。発想の種であり、発想の知恵である。 私の願いは、教師が学習サポーターになることである。 私の願いは、教師がロボットであることから解放されることである。 私の願いは、教師が人間として働くことができるようになることである。 それが、拙著『国語を楽しく』の趣旨である。 https://qr.paps.jp/n9KTm

          発想の種である。指導方式ではない

          旧暦と新暦―季節の実感により近いのはどちら?

           旧暦の元旦は、太陰暦(月の満ち欠け基準にした暦)によるので、それを太陽暦(太陽の巡りを基準にした暦)である新暦に当てはめると、毎年日付がずれることになる。2024年の旧暦元旦は2月10日、2023年の元旦は1月22日となる。新暦に当てはめると、旧暦の元旦の日付にはかなりのずれが出る。  旧暦では、元旦は1月1日に決まっている。そしてこの日から春になる。が、それを新暦に当てはめる際には、1月の下旬から2月上旬にかけて揺れ動くということになる。  新暦でも、元旦は1月1日に

          旧暦と新暦―季節の実感により近いのはどちら?

          自分の読みは成長

          自分の解釈は、自分の中であたためられて成長する。 人から押し付けられた解釈は忘れる。  たとえ幼くても、たとえ拙くても、自分の力を精一杯発揮して、自分流に、自由に解釈するのが、楽しい。  教師が正しい解釈を教えてそれを覚えたかどうかを教師がテストするというようなことは、あってはならない。それは、自分流に解釈する楽しみを子供から奪うことになるからだ。

          自分の読みは成長

          自分の性格で行く

          性格は根本的には直らない。直さない。 せっかちで、おっちょこちょいで、あまのじゃくで、へそまがり。幼いころからそう言われて生きてきた。時々は反省して、その度合いを少しは減らそうとはしている。が、この性格は死ぬまで続くだろう。短所を気にして生きるより、長所を生かして生きたほうが楽しい。と思う。

          自分の性格で行く

          質問に答えない自由

          質問に答えない自由 ―「主体的に学習に取り組む態度」のランク付けをやめよう― 人が質問に答えるかどうかは、その質問による。 秘密にしたい事柄は答えたくない。 本当のことを答えると不都合が生じる場合は、その質問には答えたくない。 では、本当のことを言わないで嘘を言えばよいだろうか? でも、嘘は言いたくない。だから答えたくない。 そういう時、どうすればよいか。 その質問に答えなければよい。 でも、質問に答えなければ、相手が不快になる。 場合によっては叱られたり、侮辱されたり、

          質問に答えない自由

          主体的に生きるとは

          人はそれぞれ自分を生きてる。 主体的に!なんて言う必要がないほど、みんな自分を生きてる。 それが主体的でないわけがない。 能動的に動くのを選択するのも主体。 受動的に動くのを選択するのも主体。 積極的に動くのを選択するのも主体。 消極的に動くのを選択するのも主体。 勤勉を選ぶのも主体。 怠惰を選ぶのも主体。 命じることを選択するのも主体。 命じられて動くのを選択するのも主体。 支配するのも主体。 従属するもの主体。 お追従を言うのも主体。 忖度するのも主体。 威張るのも主体。

          主体的に生きるとは

          授業で読まされる小説は小説じゃない

          小説はこっそり読んで密かに楽しむもの。教室で、教師の監視下で、公ごととして読むものじゃない。授業で読まされる小説は別物。小説じゃない何か。 小説は自分勝手に読んでこそ面白い。

          授業で読まされる小説は小説じゃない

          無限動因の全方位交響作用

          信仰を持たない私が阿弥陀仏を語る資格はありません。 が、私は、宇宙の無限作用を想ったとたんに、自分の微小さが見え、目の前に展開する現実が地獄即浄土に見えます。 そう感じる私に引き戻してくれる大切な窓の一つが、連日声を出して読み続けている英訳仏典です。 私にこう言う視野を広げてくれるもう一つの窓は、無限動因観です。「無限動因論」あるいは「無限動因の全方位交響作用」とも呼んでいますが、それは私が勝手に名付けた見方のことです。 その見方とは、個人の心身の内部から全宇宙に及ぶ無限時空

          無限動因の全方位交響作用

          侮辱

          侮辱は怒りの最大の原因。 とは言えないかもしれないが、 侮辱されて怒らない人は少ないだろう。 侮辱されることは大多数の人にとって、 怒り、反発、嫌悪、発奮の大きな原因と言えるだろう。 ただし、侮辱した人がそれに気づいているとは限らない。 私は学部生時代、 進路を語り合っている場で、 大学院生として着々と研究者への道を歩んでいるM先輩から、 君は研究者に向いていないというようなことを言われた。 言われたことを、半世紀余り経った今も、忘れない。 それが発奮のエネルギーになったので