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ドリュアスの火(後編)

森の木々が、さわさわと葉ずれの音を立てている。シメオンは念の為にと持参した弓を、左手でぎゅっと握り締めた。
 シメオンの側には、誰の姿も無い。ドリュアスの住処へと近付く度に、鼓動が忙しくなる。
 やがて前方に、複雑に絡み合った枝が見えて来た。ドリュアスの住まう領域を、他者から隠すための扉。シメオンが幾度となく、火矢で焼いて来た境界だった。
 一歩、扉へ近付く。ざわりと、木々のものではない葉ずれの音が鳴った。
 シメオンが足音を一つ刻むごとに、絡む枝の向こうでざわざわと音が響く。それでもドリュアスが自ら枝を解いて、姿を見せる気配は無かった。
 扉まであと一歩ぶんの距離を残した位置で、シメオンは足を止める。枝のすぐ向こうに、複数のドリュアスが息を詰めている感覚があった。
 シメオンは心音が騒ぐのを感じながら、閉ざされた扉に向けて口を開く。
「この扉を、開けて欲しい」
 ざ、と下生えが擦れる音がした。ドリュアスの足が、森の中を移動する時の音だ。
「今日はドリュアス狩りに来たわけじゃない。僕の他には誰もいない。そこからでも分かるだろ?」
 瞬きを二つする暇が、あったかどうか。固く結ばれた枝の扉が、弾けるような勢いで開いた。視界に入ったドリュアスの姿は、片手の指では足りないほどだ。
「我々が貴様の言う事を信用する理由は無い。大方、一人だと油断させておいて、伏兵を用意しているのだろう」
 先頭に立ったドリュアスが、根のようになった足を伸ばして体の位置を高くする。こちらを見下ろす緑の瞳には、火花めいた爆ぜりがあった。
「森の中の様子には、そっちの方が詳しいだろ。他に誰かが隠れているなら、もう気付いてるはずじゃないのか」
「黙れ」
 湖面のように凪いだ、それでも鉄の冷たさを帯びた声が響く。弾けた扉の向こうから、更に二人のドリュアスが滑るような動きで進み出た。
「一人ならば一人で構わない。我らを狩る者を、ほんの一欠片でも減らせるのだからな」
 足で体を持ち上げたドリュアスが、そう言って右の掌をシメオンに向ける。枝の揺れるような音がしたと思った時には、渦巻く風が真正面から吹き付けていた。咄嗟に左へ跳ぶも、そこには別のドリュアスが起こした風が待ち受けている。避ける事など出来る筈も無く、左腕の上腕へ痛みが走った。硬い繊維で編まれたシャツの袖に、じわりと赤い染みが広がる。
 足元に異変を感じ、シメオンは素早く一歩後退った。瞬き一度の後、それまで足を置いていた場所に槍の鋭さをまとった下生えが突き出す。
「話を聞いてくれ。今日は狩りに来たわけじゃないって言っただろ。知りたいことがあるんだ」
「お前たちは、一度でも我々の話に耳を傾けたことがあるか」
 最初に姿を見せたドリュアスが、胴を高い位置に保持したまま言い放つ。こちらを見る瞳には、変わらず火花が散っていた。
「都合がいいことは分かってる。でも、知りたいんだ」
 左右から同時に風が吹き付けて、紅が下生えの上に滴る。ざくりと切れた左手は弓を持つ力を失い、唯一の武器を手放した。
「僕たちは、何のためにドリュアスを狩らされているんだ?」
 間近に生えた木々から枝が矢の如く飛び出し、シメオンの右肩を射る。
 ふむ、と何処か緩やかな声が聞こえたのは、その後だった。
 下草を撫でる音を鳴らしながら、また新たなドリュアスがシメオンの前へ出て来る。瞳の色は他のドリュアスと同じだったが、彼らとは違い怒りの熱は帯びていない。
「この小僧、本当に狩りの目的を知らぬと見えるな」
「だからと言って……」
 猛るドリュアスを、凪いだ声のドリュアスが制する。
「話も聞かず、問答無用で殺せば、我らを狩る者どもと同じ場所まで堕するとは思わぬか?」
 静かな言葉に、他のドリュアス達が互いに顔を見合わせた。新緑めいた瞳の中に爆ぜるものは、未だあり続けている。それでも、シメオンを攻撃する手は確かに止まった。
「小僧。まずは名乗れ。話を聞いて欲しくば、それが礼儀であろう」
「……シメオン。ドリュアス狩りのシメオン」
 さわと、風が木々の葉を揺らす。仄かな警戒心がシメオンの中に芽生えたが、体が更なる痛みに晒される事は無かった。
「私はイリニ。この森に住まうドリュアス達の……まあ、まとめ役だとでも思えば良い」
 して、と、イリニと名乗ったドリュアスは、ほんの少し目を細める。
「シメオン。貴様は、我らを狩る目的を、何だと知らされておるのだ」
「お医者さんが、手の施しようがなくなった病人を治すためだって」
 イリニが目線で、更に続きを促した。
「死んだドリュアスを松明にして燃やすと、特別な匂いがして、それを吸い込んだ人はどんな病気でも治るって……」
「我らの体にそのような効能は無いぞ」
 紡がれた声の水面には、僅かな波紋が生まれている。シメオンは瞬きを繰り返して、イリニの目を窺った。穏やかな新緑の奥に、小さな火の兆しが見える。
「でも、昔、村でドリュアスが焼かれた時、病気の人が治ったって……」
「恐らく仕込みであろうな」
 イリニは事もなげに言い放った。
 本当は、病人を治すための薬はあった。それをドリュアスが焼かれた時に使用する事で、傍目にはドリュアスを焼いた効果で病人が快癒したように見せかけたのだ。
 イリニは、ふうと細い息を吐く。
「我らを松明にして焼く時も、都合の良い病人を用意しているのであろう。村医者を抱き込んでおると見えるな」
「それじゃあ、ザホスさんは……あの石を売るために、ドリュアスを狩らせてるのか?」
 数日前に見た取引の現場が、脳裏に蘇る。あの、揺らめきを内に抱いた緑の石。ザホスの目的は、あの石を得る事だったのか。
「ほう。石のことを知っておるのか」
「……ザホスさんが、他の町の商人に売っているところを、たまたま見たんだ」
 それなら話は早いと、イリニは言葉を続ける。
「ザホスとかいうあの商人の目的は、貴様が見たその石だ。我らを焼けば、命の力が結晶となる」
 命を燃やして得られる石は、下手な宝石よりも高値で売れるのだという。
 半ば予想していた筈の答えに、シメオンは目眩を感じた。これまで狩って来たドリュアスは、誰かを救うためではなく、ザホスの我欲を満たすために焼かれていたのだ。
「病気の人を助けるためじゃなくて、ザホスさんが自分の利益のためだけにドリュアスを狩ってるなら……止めさせたい」
 ざ、とドリュアス達の足が下生えの上を滑る。瞳の中の爆ぜりが、一際強く弾けた。
「小僧……散々我らを狩っておきながら、そのような事を……!」
「殺せ! ドリュアス狩りは生かして帰さない!」
 森が不穏にざわめく。逃げ出すべきかと考えて、シメオンは自分が走れない事に気付いた。ドリュアス達の攻撃に耐える間に、足が傷付いていたのだ。
「シメオン」
 今にも更なる攻撃を仕掛けようとしていたドリュアス達を、イリニの声が止めた。
「ドリュアス狩りを止めさせたいと言うが、何か策はあるのか」
「ザホスさんは、徹底して自分が安全圏にいることを望んでる。だから……」
 ドリュアスから取れる石が、危険なものだと思い込ませられれば。ザホスは取引を止める可能性が高い。
「……ふむ。話し合いの余地はあるか」
 イリニはゆっくりと瞬きをして、シメオンの様子を窺った。
「貴様に何か妙案はあるか?」
 シメオンは息を一つ吐いて、言葉を紡ぎ始めた。

 篝火が落とされた村の夜は、何処となく見知らぬ土地のように見える。シメオンは村と外の境目で、背の高い草の陰に身を隠していた。ドリュアスの攻撃で付いた傷はまだ癒えていなかったが、弓を引けないほどではない。
 さわと、冷たい風に吹かれて、隣にいるイリニの髪が揺れる。今のイリニは、草の中に隠れてしまうほど小さな体となっていた。ドリュアスは根のような足の長さを調節する事で、体の大きさをある程度変えられるのだと森で聞いた。
 詰めた息を、少しずつ吐く。それを、五度ばかり繰り返した時。
 無骨な靴音が、シメオンの鼓膜を揺すった。さほどの間を置かずして、ザホスが現れる。その向かい側から、シメオンが以前に見た外の商人も姿を見せた。
「今日はどれぐらいだ?」
「ここのところ不作でな。数は大したことはない」
 その代わり、質は良いぞ。
 嗤うザホスが、木の箱を懐から取り出す。その刹那、シメオンは矢を筒から引き抜いた。鏃にはドリュアス狩りに使用したものと同じ、油を染み込ませた古布が巻いてある。片手で火花を散らすと、鏃がぱっと燃え上がった。
 ザホスが箱の中から、ドリュアスの命の結晶を一つ出して掌に載せる。揺らめく緑を内に抱いたその結晶めがけて、シメオンは火矢を放った。
 硬い音を立てて、火矢がドリュアスの結晶に命中する。炎が軸の部分にまで広がる間に、イリニが燃え上がる矢へ両の掌を向けた。
 瞬き一度の後、矢を燃やす炎が新緑の色に染まる。緑の炎はドリュアスの結晶を包み、ザホスが小さく声を上げてそれを放り出した。緑に色付けされた火が、土の上で焦げ臭いにおいを放つ。
「な、なんだ! 誰かいるのか!」
 ザホスが叫び、周囲を忙しく見回した。イリニが背筋を伸ばして、足の長さを変える。ザホスからは、草の中からいきなりドリュアスが現れたように見えただろう。
「ドリュアス……? なんでこんな所に……!」
「なに。我が同胞が焼かれていると聞いたのでな。ドリュアスのまとめ役として、警告しに来た次第だ」
 イリニの視線が、地面に転がったドリュアスの結晶に向く。緑の炎に包まれてそれは、自ら発火しているようにも見えた。
「我らの命の結晶は、悪心を感じ取ると燃え上がる。そのように命の有りようを変えたのでな」
「馬鹿なことを言うな! 今までは何も起きなかったんだ!」
 悪心を持っている事は否定しないのか。
 身を低くして草の中に紛れながら、シメオンは内心で溜め息を吐く。
「言ったであろう。命の有りようを変えたと。我ら、木々より生まれし者なれば、その程度、容易いことよ」
 イリニの目線が緑の炎を見て、またザホスを見据えた。
「我らの命の結晶を悪しき心を持って扱うならば、幾度でも炎がその身を焼こうぞ。覚悟するが良い」
 ざわざわと、足で草を揺らしてイリニがザホスに背を向ける。ちらと向けられた眼差しに頷いて、シメオンは身を低くしたままイリニの後に続いた。

 ドリュアスの住まう領域にたどり着いた時、既に空は白みかけていた。姿を現し始めた日の光を透かして、葉が下生えの上に淡い模様を描いている。
 絡み合った枝の扉の前で、イリニはシメオンを振り返った。
「ドリュアス狩りはこれで暫し治まるであろうが……あの男、完全に諦めるとは思えぬな」
 長きに渡ってシメオン達を騙し、我欲を満たして来たザホスだ。高値で取り引きが出来るドリュアスの結晶に、そう簡単に見切りを付ける筈は無いだろう。
 シメオンは緩やかに頷き、弓を改めて握り直した。
「またドリュアスが狙われることになったら……その時は、僕が止めるよ」
 ふむ、とイリニが目を半ばまで伏せる。
「我らの力が必要になれば、また来るが良い。少なくとも、私は貴様の話を聞く用意がある」
 イリニはそう言って踵を返し、自然に解けた枝の扉を通り抜けた。
 シメオンは深い緑の匂いを吸って、緩やかに吐く。
 村に戻ったなら。まずは、ソリティス辺りに本当の事を話してみよう。信じて貰えるかは分からないが、踏み出す前に諦める必要は無い。
 シメオンは森の中を、村に戻るべく歩き始めた。