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ドリュアスの火(前編)

すん、と誰かが鼻を鳴らす音がした。息を吸ったシメオンの鼻孔を、濃い緑の匂いがくすぐる。
 シメオンは下生えの生い茂った地面に片膝をついて、左手に弓を握っていた。腰の右に固定した矢筒には、昨日作ったばかりの矢がみしりと詰まっている。隣にいるのは同じく弓矢を携えたソリティスだ。前には三人、剣の柄に手を掛けた少年達が、きっちり横一列に並んでいる。
 シメオンは彼らの隙間から、前方を見据えた。琥珀めいた瞳に、絡まり合った木々の枝が映る。
 森の中とはいえ、枝が自然とこのように不可思議な状態になる事は稀だ。絡まった枝はこの先へ進む者を阻むかの如く、視線すら通さない堅牢さをまとっている。
 ドリュアス。この森に住まう人ならぬ種族が為した事だと、既にシメオンは知っていた。
「さあ、今日もたっぷり狩るぞ」
 野太い声は後方から流れて来る。商人のザホスが、シメオンを始めとした少年達の後ろに控えているのだ。
 動けと言われて、シメオンは他の弓手達と共に立ち上がる。引き抜いた矢は、油を染み込ませた古布で鏃が覆われていた。火打ち石をかつんと鳴らし、散った火花で鏃を燃やす。
 その火が消えぬ間に、強靭な扉めいた枝に向けて矢を放った。時を同じくして放たれた火矢は三本。突き立った枝が爆ぜ、森の中がいっとき朱に揺らめく。
 そのまま木全体に燃え移るかに思われた火は、しかしすぐに消し止められた。焼けた部分だけに水が注がれたように、しゅうと白煙を立ち上らせて絡み合う枝が黒化する。
 鼓動が一つ鳴った後、黒に変じた枝が音を立てて地に落下した。開かれた森の中から、ずるずると何かを引きずる音がする。
 現れたものは、人ではなかった。新緑のように鮮やかな緑の髪と瞳を持ち、足が木々の根のように枝分かれしている。何もまとっていない肌は濃い茶を有し、表面に走った筋は樹皮を連想させた。
 ずるずると無数の足を引きずりながら、最初の一人に続いて更に二人が焼けた枝の向こうから現れる。
 この森の中で、何度も目にした存在。彼らがドリュアスであると、シメオンはもう分かっている。
「立ち去れ」
 最初に現れたドリュアスが、年月を重ねた大樹を思わせる声で言った。足裏に痛みを感じて、シメオンはそこが強張っている事に気付く。
「このまま立ち去るなら、見逃そう」
 朗々と響く声は滑らかで、それだけを取り出せば人と区別が付かない。
「何をやっている! さっさと狩れ!」
 ザホスが叫び、前列に並んだ少年達が剣を引き抜いて駆け出した。姿勢は低く、剣の切っ先も地面すれすれの位置を走っている。
 最初に姿を現したドリュアスが、真横に動いて剣を避けた。シメオンはそこを狙って、今度は火を灯していない矢を放つ。硬質の音が鳴るも、鏃は根のように広がった足の一本に突き刺さった。ソリティスの矢がその後を追う。
 足を射られたドリュアスが、右手を大きく広げて前方へ突き出した。足とは違い、その手は人のそれと等しく見える。
 胸部や腹部と同じく濃い茶に染まった掌から、風が渦を巻いて吹き付けた。剣を持った少年の一人が直撃を受けて、ぱっと紅い色を周囲に散らす。
 シメオンが二本目の矢をドリュアスに放つと、鏃が突き立った部分が灰色に変じ始めた。新緑めいた瞳にちらと炎じみた揺らぎが見える。
 距離を詰めた少年の一人が、根のようになった足全体を、真横に振り抜いた剣で切り裂いた。ばら、と、ドリュアスの体から離れた足が森の下生えの上に転がる。
 完全に切断された足は、枯れ木を思わせる色になっていた。足の一部を奪われたドリュアス自身も、見る間に体色を枯木の色に染め上げる。
 シメオンの矢は、今度は胸を狙った。動きの鈍ったドリュアスは目を瞬くばかりだ。しかし鏃が突き立つ寸前、別のドリュアスが風を吹かせて矢の軌道を変える。
 三人目のドリュアスが下生えに両手をつき、葉のさざめきを連想させる声を上げた。瞬く間に下生えの草が背丈を増し、槍の如き勢いでシメオン達の足元を突く。
 緑の槍の中から飛び出したのは、剣を持った少年の一人だった。姿勢を揺らがせたドリュアスに接近し、切っ先を腹に突き立てて縦に切り裂く。
 耳に突き刺さるような声を上げて、ドリュアスの一人が横倒しになった。髪が瑞々しさを失い、捻れて縮んで行く。傷を受けた腹から古木のような色が広がって、ドリュアスの体全体を包んだ。
「まずは一体だな」
 ザホスが歪みを孕んだ声で言う。動かなくなったドリュアスの体は、剣を持った少年達が抱えて後方へと運んだ。
 下生えを操ったドリュアスが、繰り返し掌を地面に叩き付ける。その度に草が活性化して、槍の鋭さを帯びシメオン達の足を傷付けた。
 足元が安定しない場所では、弓を射る事も叶わない。シメオンは下生えを操るドリュアスを迂回するようにして、もう一人のドリュアスの側面へ移動した。ふっと息を吐く間もあればこそ、シメオンは素早く矢を番えて放つ。鏃は過たずドリュアスの足に突き刺さり、そこを灰色へと変えた。
 同じ事を考えたらしいソリティスが、すぐ隣へとやって来る。特に声を掛け合う事も無く、それでも同じタイミングで、二本の矢がドリュアスへ向かう。敵を認識したドリュアスが風を起こし、シメオンの矢が逸れた。しかし鏃は足を僅かに掠め、ソリティスの矢はまっすぐに足の一本を射抜く。
 灰色の面積が広がって行く足を抱え、ドリュアスはきりきりと体を捻れさせた。掌が風を起こすより早く、剣を持つ少年の一人が間へ飛び込んだ。剣の切り刃が脇腹から肩にかけてを斜めに切り上げる。ざっと、勢い良くドリュアスの体が枯れ木と化した。
 どう、と二人目のドリュアスが倒れる音を受け、最後のドリュアスは地面から掌を離す。撤退しようと身を翻したところに、背中から剣の少年の一人が切りかかった。長い緑の髪を刃が貫通し、背中へ深い傷が刻まれる。
 三人目のドリュアスは、それだけで呆気なくどっと倒れた。瞬きをするごとに肢体が枯れて行き、やがて今まで動いていた事すら想像出来ないほど乾いた姿と化す。
「よし、今日はこれで十分だ」
 ザホスの声を聞いて、シメオンはほっと内心で息を吐いた。剣を鞘に収めた少年達が、枯れたドリュアス達を抱えて行く。
「浮かない顔だな」
 ソリティスが、自身も陰りを帯びた顔で言った。矢を筒に戻して、シメオンは運ばれて行くドリュアスの亡骸を見る。
「そりゃあな。命を奪うのは、気分がいいもんじゃないよ」
「でも、ドリュアスの枯れ木を焼いた時に出る炎でしか治せない病気があるんだろ? 割り切るしかない」
 それは分かってるけどさ。そう返しながらも、シメオンの腹には重たいものがずしりと陣取っていた。
 医療行為に必要ならば、狩らなければいけない。薬草を摘み取るのと同じ事だ。それでも、曇った空のような憂鬱さがシメオンの中から抜ける事は無かった。

 がらんとした家の中で、シメオンが鏃を削る音が響く。中途半端な角度に押し開けた窓からは薄く日の光が差し込み、手元を頼りなく照らしていた。
 形の整った鏃を矢に括り付け、筒の中へ放り込む。その間も、シメオンはドリュアスの事を考えていた。
 ドリュアス。
 樹木の精霊とも、森の守護者とも呼ばれる彼らは、森の木々から生まれる。そして自らが生まれた森の中でドリュアスだけが暮らす集落を作り、他者がそこに入り込む事を過剰なまでに嫌うという。
 ドリュアスは自分の領域に他者が侵入する事を拒む代わりに、自らも他者の領地に進み出る事は無い。それだけならば、人間とドリュアスは決して交わる事の無い種族同士として過ごすだけに留まっただろう。
 二者の関係に変化が生じたのは、シメオンがまだ巧く言葉を話せない頃だったと耳にした事があった。
 事故か故意にか、ある時、人間の放った炎でドリュアスが焼かれてしまう事件が起きたのだ。放たれた火はドリュアスに引火した途端、その色を緑に変えた。
 森から出ない筈のドリュアスが、何故外にいたのかは分からない。だが、通常は生じる事の無い、緑の炎は柔らかな芳香を生み――それを吸い込んだ病人の病を快癒させたのだそうだ。村の医者では手の施しようがないと診断された、ただ死を待つばかりだった病人を。
 シメオンの暮らす村で、ドリュアス狩りが始まったのは、それから間も無くだった。
 ドリュアスは足や胴を傷付けられると、そこから枯れ始め、やがて死に至る。生きたドリュアスを村に連れて来て焼くよりも、枯れ木にして持ち帰り、必要な時に燃やす方が良い。村の大人達がその結論に至るまで、さほどの時間はかからなかった。
 特に、根のようになった足は、捻り合わせて松明のような形状にする事で、炎が長持ちする。より多くの病人を救えるようになるのだ。
 だから、と、シメオンは新たな鏃を削る手を、ほんのいっとき止める。
 これは仕方のない事なのだ。何度も繰り返した言葉を、胸の内で呟く。
 矢筒がいっぱいになると、シメオンは腰掛けていた椅子から立ち上がって竈に向かった。寝室と、小さな机と椅子が置かれた一角。そこから数歩進むだけでたどり着ける竈。それがシメオンの暮らす家の全てだった。
 シメオンの両親が病に連れ去られてから、もう五年が経つ。
 間に合わなかったんだよ。
 冷たくなった両親を前にした時、ザホスから言われた言葉が脳裏を過る。ドリュアス狩りが滞り無く行われていれば、シメオンの両親は死なずに済んだと。
 それからシメオンは、弓を持つようになった。
 竈に火を入れようとした時、がらがらと村の鐘が鳴る。ドリュアス狩りが始まる合図だ。
 シメオンは薪を竈の脇に戻して、弓を手に取るべく寝室へ引き返した。

 この日、森の奥から現れたドリュアスは、二人だった。樹皮のような肌と顔の大部分を覆う緑の髪のせいで、年のほどは分からない。そもそもドリュアスは、枯れ木にされるか、生まれた木が潰えるまで死ぬ事は無い。外見から受ける年齢の印象など、気にしても詮無い事なのかもしれなかった。
「今日は数が少ないな……まあ、いい。狩れ!」
 ザホスが不満げに鼻を鳴らして、シメオン達に号令を放つ。ドリュアスが巻き起こした風の奔流を避けて、剣を持つ少年の一人が脇腹を薙いだ。少しばかり体が捩れたその隙に、シメオンは矢を撃ち出す。鏃が腹の中心を射抜き、そこから灰色が広がった。
 ソリティスが弓弦を鳴らし、傷付いたドリュアスの足を射る。灰に侵食された体が大きく傾いで、下生えの上に転がった。手の空いていた少年が素早く駆け寄り、動きを止めた足を断つ。
 もう一人のドリュアスは、既にシメオン達から距離を取りつつあった。細かく軌道を変えながら弓手達の矢を避け、強い眼差しをこちらへ向けて来る。
「足だ! さっさと足を狙え!」
 ザホスの声に短い息を吐き出して、シメオンは忙しく動く足へ狙いを定めた。うごめく足の一つに鏃が刺さり、ドリュアスの動きが鈍る。
 剣を持った少年達が距離を詰めにかかると、ドリュアスは頭を大きく振るって口を開いた。目線はザホスに向いている。
「この、金の亡者めが! 手下を引き連れなければ狩りもできないか!」
 葉ずれの音を思わせる声に、シメオンは次の矢を番える手が止まってしまう。
 狩ったドリュアスは、村で保管され必要に応じて焼かれる。そこに金銭が発生する余地は無い筈だ。
 それはどういう意味かと紡いだシメオンの声は、みぞおちを刺されたドリュアスの叫びに掻き消された。剣の少年達が、枯れ木となったドリュアスの亡骸を運び始める。
「今日は収獲が少なかったが、まあいいだろう。次もしっかり働いてもらうぞ」
 ザホスはドリュアスの発言について、何事も言わなかった。いつものように、村への帰投とドリュアスの運搬とを命じるだけだ。
 本当に。
 口の端に上りそうになった言葉を、シメオンは呑み込む。
 本当に、ドリュアス狩りは、人の病を治すためだけに行われているんですか。
 呑んだ言葉はしかし、シメオンの腹の中で重たい塊となって居座った。

 今日はドリュアスが焼かれた。診療所の中から起こった歓喜のさざめきが、シメオンの家の中まで入り込んで来る。
 またすぐに、ドリュアス狩りに行く事になるだろう。シメオンは竈に薪を入れながら、緩やかな確信を抱いていた。前回は、あまり多くのドリュアスを狩れていない。枯れ木の『在庫』を維持するためには、また新たなドリュアスが必要だ。
 竈の前に屈み込んで、ぱちぱちと爆ぜる火を眺める。揺らぐ炎がドリュアスの火を連想させ、気が滅入った。
 簡素な夕食を終えると、日はもう完全に落ち切っている。
 この後は取り立てて用事も無い。明日に備えて、もう眠ってしまおう。
 シメオンがそう考えた時、軽打の音も無く玄関の扉が開いた。目線を向ければザホスの姿が映る。
「ああ、お前はまだ起きていたか」
「ザホスさん、一体……」
 ザホスはシメオンの言葉になど頓着せず、ずかずかと家の中へ入って来た。
「枯れ木の足が広場に残っている。今すぐ蔵に運べ。いいな」
 ザホスはそう言うと、返事も待たずに踵を返す。声を掛けるいとまも無く、その背は暗がりに消えてしまった。

 村の広場は篝火が消されて、細くなった月の光だけに照らされていた。すっと息を吸い込むと、微かに香木めいた匂いがする。シメオンはそれをたどって広場の中を歩いた。
 狩られたドリュアスの足が、無秩序にあちこちへ散らばっている。シメオンは屈んで地面を撫でるように手を動かし、一つずつ拾い上げて行った。
 視力の及ぶ範囲にあった、ドリュアスの足を全て拾う。まとめると、シメオンが両腕で抱えなければいけないほどになった。
 運ぶように言われた蔵は、ザホスの家にほど近い。広場から離れると共に、少しずつ周囲の暗闇がその濃さを増して行った。昼の記憶を頼りに、歩を進めて行く。
「だからこれは、そう安く売るわけには行かないんだ」
 風に乗って、ザホスの声が耳に届いた。思わず足を止める。
 村と外との境になる場所に、ザホスがいた。向かい側には、別の村か町の商人と思しき人物が見える。
 場所を間違えた。シメオンはすぐにその事に気付いたが、そろりと足音を忍ばせてザホスの背面へと進む。
「これが貴重だって事は、そっちも分かってるだろう。枯れ木を焼かなきゃ手に入らないんだからな」
 ザホスが相手へ、右腕を差し出している。上を向いた掌に載っているものが、小さな篝火を受けてきらめいた。
 それは、緑色の石だった。新緑を思わせるその色が、微かな揺らぎを内に秘めているように見える。
 揺らぎを抱く石は、瞬きをするごとに内側の輝きが明滅を繰り返していた。ドリュアスを焼いた時の、緑の炎をシメオンは連想する。
「まったく、そっちも悪どいな。お前が自分で取ってきたわけじゃないだろうに」
「狩りの現場には、俺も行ってる。危険を冒してるのは同じだろうよ」
 一呼吸の後、二人の商人が下卑た嗤い声を上げた。
 狩り。枯れ木。
 その言葉にどうしても、シメオンはドリュアス狩りを思い起こす。
 枯れ木を焼かなきゃ手に入らないんだからな。
 今しがた聞いたばかりの、ザホスの言葉が脳裏に響いた。あの石は、枯れたドリュアスを焼く事で手に入るのか。
 それなら、シメオン達が行っているドリュアス狩りは。
 ザホス達が身動きした拍子に衣擦れの音がして、シメオンの意識を現実へ引き戻した。
 この現場を見た事を、ザホスに知られてはいけない。
 シメオンは足音を殺して、ゆっくりとその場から離れた。
 枯れたドリュアスの足を抱え、今度こそ蔵を目指す。
 あれは明らかに、取引の現場だった。たどり着いた蔵の扉を開いて、シメオンは深く息を吐き出す。
 あの石を、ザホスは秘密裏に売り捌いている。それは疑いようの無い事実だった。
 ドリュアス狩りは、本当に人の病を治すためだけに行われているのか。
 腹の底に溜まっていた疑問が、また鎌首をもたげる。
 この答えは、村の中では得られない。蔵の床にドリュアスの足を積み上げて、シメオンは思う。
 真実を知りたいと願うなら、行くべき場所は一つしかなかった。