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フォーゲットサマータイム⑤了

 静かな和室の中で、エアコンの音が流れていた。祖母は寝息すらおしとやかな人らしい。台所では、泊まりで残った親戚たちが朝食の用意で慌ただしくしているはずだが、この部屋は世界から分断されたかのように静かだった。
 陸兄さんは運転に疲れたといって家に戻り、ヒマリ姉さんは謎が解けてすっきりしたと言い残して部屋で眠りこけている。僕は廊下でヒマリ姉さんの母に捕まり、祖母の様子を見てきてほしいとレモン水を渡されたので、今こうして祖母と二人きりになっている。
 昨日の出来事は、運命とか奇跡とか考えてしまいそうだが、狭い町の中ではそこまで珍しい確率じゃないのかもしれない。直木さんの父の兄が、祖母の婚約者だったということは。
 直木さんは自宅で農業しながら悠々自適に長生きしている父を呼び出してくれて、アルバムと共に小さな思い出を語ってくれた。祖母より二年上のアルバムに、そのナオキさんは写っていた。婚約者といっても大層なものではなくて、小さい頃から仲良くしていたせいで、周囲から「二人は結婚するんやろうな」と思われていた程度だ。しかし、二人はまんざらでもなかったようで、特にナオキさんは周囲に「徳子さんと結婚する」と話していたらしい。
 結婚が実現されなかったのは、ナオキさんが戦地から帰ってこなかったからだ。
 もしナオキさんが戦地から帰ってきたら僕や母や他の親戚たちがこの世にいなかったわけで、でもこの世に以内ならそれを残念がる自分もいないわけで、もしかするとドラえもん理論ならば先祖が誰であれ自分が生まれることだってあるかもしれなくて、そういうことを考えていると、祖母がうっすらと目を開けた。ヒマリのおばさんからは祖母が目覚めたらレモン水をスプーンで口元を濡らして、と指示があった。祖母はレモン水が好物なので、少しでも水分を摂ってほしいときにレモン水を与えるのだそうだ。
 僕が慣れない手付きで木のスプーンをレモン水に浸したとき、祖母が小さく唸ってから「直木さん」と囁いた。
 そしてもう一度、「直木さん、かえってきたの」と弱々しく言った。
 弱々しさは体力が落ちていった力の無さではなく、不安と期待の入りじまったような声だった。
 そこに、あの潮の香りがする港町で、ずっと水平線を見ながら愛しい人が戻ってくる日々を過ごした少女の姿を見た。
 僕は、祖母の顔を覗き込み、祖母の瞳に映り込んだ。
「ただいま、徳子さん」
 そして、レモン水を浸した木のスプーンで口元を濡らした。
 レモン水を少し舐めた祖母は、大きな黒目を開いて僕を見た。
 何度かレモン水を与えると、祖母はうんうんと頷いてから「ありがとう」と言って、再び眠りについた。

 夏休みも終わりに近づき、東京に戻る日に陸兄さんとヒマリ姉さんが駅まで見送りに来てくれた。たくさんのお土産を持って。
「焼けたなぁ、自分。真っ黒や」
「出た、関西人のやたら誇張する言い方。そもそも陸兄さんがヒマさえあれば釣りに連れて行ったせいだから」
 そして僕が釣れるたびに「ビギナーズラックや!」と言っていたが、ビギナーズラックは何回まで有効なのだろうか。
 ヒマリ姉さんは「また遊びにおいでよ」と言った。
 電車が発車しても、見えなくなるまで二人はずっと手を振ってくれた。
 次は、東京限定のお菓子とか持ってこようかなと考えながら、僕は車窓に流れる山や木や田園風景を眺めていた。


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