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英語格闘記:帽子とアスコット競馬

昔々,昭和時代の終わりぐらいの事。

筆者は十代の途中で家族の転勤でイギリスに移り住んだ。

高校生の頃、ラジオを聴くのが好きだった。

インターネットの無かった時代、外国語を覚えるために使えるものの一つにラジオがあった。

天気予報から始まり、ニュースやバラエティ、ラジオドラマ、音楽、DJのおしゃべりやラジオ局に音楽のリクエストをしてくるリスナーとのやりとり。様々なスタイルの外国語を耳にすることが出来た。

中でも一番好きだったのがBBCラジオ4でやっているラジオドラマだった。ドラマは会話の宝庫だ。自然な会話とは少し違うものの、俳優さんたちの熱演が聞け、カセットテープに録音しては何度も聞けるので、重宝していた。

ある日、「The punters(競馬の賭けをするおじさんたち)」というドラマが週末に放送されるというコマーシャルを聞いた。BBCラジオ4のオリジナル番組で、面白そうに思えた。

その前からもpunterという言葉を何度か見聞きしており、この人たちが喋ったらどうなるんだろうという興味本位で聞いてみた。

放送の日がやってきた。ラジオをチューニングしてカセットテープを用意し、番組の開始を今か今かと待った。

ラジオから聞こえてきたドラマは、3~4人のおじさん達の会話だった。
競馬が始まる前のワクワク感から始まり、競馬の最中の興奮、終わって掛け金をどうするかで揉める登場人物たちは確実に「おじさん」だった。

そのドラマは2~3回聞いただろうか。耳で聞いて分からない単語は山の様にあり、ようやく話の大筋が追えて少し新しい単語を聞き取り、辞書で意味に辿り着くことが出来たくらいだった。おじさん言葉はこんなに難しいのかと、全部理解するのは途中であきらめた。

しばらくして、肌寒い日があった。家族からもらったつば付きの黒い帽子を被って学校に行った。制服の無い学校だったので、教室の中で被っていなければ帽子を被るのも問題が無かった。

通学の途中の朝、すれ違うおじさん達から「Has Ascot started yet?(もうアスコットが始まったのかい?)」と呼びかけられた。一人ではなく、数名から言われた。もしかしてアスコット競馬の事を言っているんだろうか。

しかし春もまだ寒き時期に「アスコットがもう始まったのかい?」と言われても、ピンとこなかった。それになぜ自分がアスコットに関係しているかの様に言われるのも分からなかった。

その時脳裏をふとよぎったのが「Punter」という言葉だった。

いつもと違う服装と言えばつば付きの帽子だけ。これを被っているからもしかしてPunterに見られているのだろうか。

心配になった筆者は、放課後に先生に聞いてみた。

「You know, some people called out saying “ Has ascot started yet?” this morning. Do I look like someone who bet?(今朝、もうアスコットが始まったのかい?と呼びかけられたんですが、私賭け事をする人に見えますか?」

先生はにっこりして「Yes 見えるわよ」といった。やっぱり競馬に賭けるひとに見えるんだ。筆者は思わず聞いた。

「Do I look like a punter!? 競馬で賭け事をするおじさんに見えるんですか!?」

先生は笑って言った。

「It’s because of your hat. You know at Ascot Horse race, people wear hats, and women wear brimmed hats. 帽子のせいよ。アスコット競馬では帽子を被るし、特に女性はつば付きの帽子を被るからね」

そこまで聞いて、私は安心した。つば付きの帽子を被っているからアスコットを楽しみに来る女性の見物者たちの様に見えるという事だった。

アスコット競馬とはイギリスの夏にアスコット競馬場で行われる華やかな競馬だ。

人々は着飾って競馬を見に行き、昼食時にはメインの料理に加えてシャンパンを飲み,新鮮なイチゴを食べるというのが習わしだと言われる。古い映画の「マイ・フェア・レディ」にアスコット競馬のワンシーンが出て来るが、映画の様に大きなつば付きの帽子を被るのはアスコットに競馬を見に来る女性の定番の服装らしい。

現在では四つのランクに分かれる観覧席があり、六月の「ロイヤル・アスコット」と呼ばれるイギリス王室のメンバーも観覧に訪れる競馬では、女性は大きな帽子を被り、肩を出し過ぎないドレスやパンツスーツを。座席によっては男性は燕尾服、一番下のランクの席でもスーツ着用というドレスコードがある。六月の競馬を彩る華やかな祭典の一つだ。

先生との会話を聞いていた何人かの語学学校時代に席を共にした友達が,「What’s punter?」と聞いてきた。

私は思わずこう答えた。「Punters are the geezers who bet on horses」

すると、友人が「What’s geezers?」と聞いてきた。

Geezerは「おじさん」という意味で、成人した男性を「やつ」と言う表現になる。スラングの一種で、Puntersのラジオドラマに何度も出てきた言葉の一つだった。あまり上品とは言えない言葉。それに聞いてきた友達は当時12歳。こんな乱雑な言葉を教えていいものかと戸惑った。

友達は、GeezerとPunterのスペリングを教えて欲しいという。

困った私は、書きながらこう言った。

「Please don‘t use them in front of your mummy and daddy. They will worry what sort of language they are teaching at the school.お父さんやお母さんの前で言わないでね。学校でどういう言葉を教えているんだ、って心配されるから」

友達はどうやらその日のうちに辞書を引いたらしい。

翌日から、彼女たちの言葉遣いが変わった。ある子はGeezerがすっかり気に入ったのか、それともその子の母国語では連発する言葉なのか分からないが、廊下から大きい声でGeezerという言葉が聞こえてくるようになった。

GeezerもPunterも罪のない言葉だが、12歳の子供が学校で学んでくる英語ではないだろう。友達の親御さんが目を吊り上げなかったことを切に祈る。そんな一幕だった。


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