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わたしだからこそできること

いま、わたしは子どもにピアノを教える仕事をしています。

ピアノを習い始めたのは4歳のときでした。仲の良かった友達が始めたのを聞いて、「わたしもやりたい」と言ったのが始まりでした。

最初は楽しかったのです。赤バイエルをやって黄バイエルをやって。少しずつパワーアップしていくゲームのようでした。

でも、次第に難易度が上がってくると、孤独な修行になってきます。毎日の練習が苦になり、だんだんレッスンに通うのも嫌になっていきました。年端のいかない子どもに、歯を食いしばるタイプの修行は過酷です。ピアノは、練習をさぼると取り繕えません。先生には一目瞭然、絶対にばれます。あんなに魅力的に映っていたピアノが、次第に輝きを失っていきました

わたしは、母にピアノを辞めたいと申し出ました。一回だけではなく、何度も。そのうちの数回は、相当本気の申し出でした。

でも、母の答えはいつもノー。一旦始めたことを途中で投げ出してはならない。せっかくここまで続けたのだから、やめずに続けなさい。

よくある話です。同じような経験をした人は多いのではないかと思います。

つらくても、しんどくても、耐えしのぶ。歩みを止めずに継続する。母にしてみれば、そこに美学があり、教育があり、いずれわたしにもその価値がわかる日がくると信じていたのでしょう。

結局、ピアノは高校3年生になるまで続けました。13年です。確かに、ある程度技術が身につき、有名なピアノ曲にも手が届くようになった頃から、なんとなく楽しさの片鱗を理解できるようになったような気がします。好きだろうが嫌いだろうが、とにかく継続することで見えてくるものがあるのは確かです。

でも、振り返ってみると、なんてもったいないことをしたんだろうと思わずにはいられません。この13年のほとんどは、必要最小限の努力で淡々とこなしていただけなのです。最低限の練習をして、レッスンをやり過ごして。先生との関係にも、母との関係にも波風が立たないように立ち振る舞っていました。

アメリカに来てから、誰に言われるでもなく、ピアノをまた弾くようになりました。長いブランクを経た再開でした。一軒家を買い、この明るい部屋にピアノを置いたらいいかも、と思ったのがきっかけです。

かつて練習した曲を皮切りに、憧れだった曲にもどんどん挑戦しました。のめり込むようにピアノを弾く日々が始まりました。ずいぶん長い時間がかかってしまったけれど、わたしはようやくピアノの楽しさを知ったのです。今度は片鱗なんかではない、本体そのものを。

自分なりの解釈をピアノで表現する自由。
心に響いたメロディを指先で再現する喜び。
誰かと音楽を共有することで倍増する興奮。

そして、ときどき思うのです。ピアノを習った13年を、もしいまのような気持ちでピアノに向かえていたら、どうなっていただろうと。わたしの腕は相当なものになっていたのではないか。違う世界が見えていたかもしれません。なにより、その時間が、修行ではなく、わたしの心を豊かに育む時間になっていたはずです。

ピアノ嫌いだったわたしは、時を経て、ピアノの先生になりました。こうなった背景には、アメリカに移住して、前職を辞めて、幸いにも子どもが2人も生まれて、人生観や仕事観を大きく変える出来事に影響されたことも多分にあります。でも、いずれにしても、当時のわたしには、天地がひっくり返っても想像がつかなかった未来です。

ピアノの先生になろうと思ったとき、わたしにはささやかなビジョンがありました。一言でいうと、

ピアノの楽しさを教える先生になろう

ということです。

音大を出て、音楽理論やピアノの技術に長けた先生はたくさんいます。そういう方たちが、普通はピアノの先生をやっています。ここアメリカでも、それは同じです。

もし、ピアノで人生のキャリアを築いていこうという目標があるなら、そういう正統派の先生について習うのが正解でしょうね。実際にキャリアを持っている人にしか教えられないことがあると思うからです。

でも、ピアノを通して音楽を楽しむ術を知り、人生を少し豊かにしたいという動機であれば、わたしにもお手伝いできることがあります。かつてあんなにピアノが嫌いだったのに、いまはピアノとともに喜怒哀楽の日々を過ごしている。そんな変遷を遂げてきたわたしだからこそ、教えられることがあると思うのです。

小さなピアノ教室です。ここは、わたしの実験場でもあります。


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28日目です。今日もなんとか。

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