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「戦争」 ルイ=フェルディナン・セリーヌ

森澤友一朗 訳  ルリユール叢書  幻戯書房

北本、小声書房で購入。
(国書刊行会から出ている「戦争」とは違うものらしい)
(2023 12/30)

頭にこびりついた轟音

セリーヌの実体験であるらしい、第一次世界大戦のイーペル近辺で負傷し、イーペルの教会で応急処置をしている時に敵に攻められて違う病院に収容される。イーペルまでとその病院出てからは「夜の果てへの旅」で書かれているが、その中間の病院の部分は抜け落ちている…という箇所が書かれているのが、この「戦争」のようだ。

 十二月十四日このかた、おれの眠りはいつだってこの轟音のまっさなかだ。おれはこの頭の中に戦争を捕まえたんだ。そいつはいまだってこの頭の中に閉じ込めてある。
(p14)


本の帯にも書いてあるこの文章。「いま」っていうのがいつなのか、たぶん「夜の果てへの旅」での「いま」(という表現があるのかないのか)とほぼ同じだと思うのだが。気になるところ。普通はそんな戦争の轟音などは頭から去って欲しいと願いながらも残り続けるものだろうが、セリーヌ自身も実のところ悩まされたのだろうが、それを閉じ込めてあると言い切るところがこの人の魅力。

 恥辱の限りで、虫唾が走る。与えられ、これまで守ってきた人格の全体、おぼつかないながらも残酷にしてじゅうぶん過酷だった過去、そいつらが粉々に分解されてその破片のなか転げ回る。生命ってやつの正体をおれは見たんだ。生命がおれを拷問にかけている真っ最中を。いつか今際のきわの苦しみで再会したらば、そいつのツラに唾吐きかけてやろうじゃないか。
(p23-24)


この少し前で、痛みを様々な部位で抱えつつなんとか歩きながら、自分という存在がもはやばらばらになっている文章がある。その文も受けて、ついに分解され粉々にまでなるという。こうした人間の極限のある意味即物的な存在は、やはり20世紀に入ってからの戦争の特色だろう。
あとはこの章(といっていいのか、この区切り…)最後の、何かを物語るように仕向けてくる力みたいなのも、一つの主題なのかな、と今は思う。
(2024 02/04)

敷石の記憶

昨夜は少しだけ。なんとか外出許可を貰ったフェルディナンと同室の仲間べベール。近くのプルデュ=シュル=ラ=リスという町まで出かける。

 きれいな空気に吹かれてるとときおり軽い眩暈に襲われたがそれでもべベールに支えてもらってなんとかおれは進んでった。敷石道の上に足を踏み入れるや俄然その上を歩き回りたい欲求がうずいてきた。
(p69)


敷石とかいうと「失われた時を求めて」のヴェネツィアか?と思ってしまう。足裏の感覚というのは何かの記憶のスイッチでもあるのか。二足歩行で歩くようになってからその記憶は個々人の奥底に随時潜んでいる。
と町に出れば結局やるのは、酒場にいたウェイトレス?に絡むことくらいなのだけど…今のところ…
(2024 02/06)

両親とセリーヌそして三部作

まず、カスカード(前に出ていたべベールと同じ人物らしい)と田園風景を見る場面から。

 砲声もここまではたいして響いてこない。水面はのどかで、人通りもまったくない。ポプラ並木をささやかな笑い声のような音を立てながら風がそよいでる。神経に障るものといったら小鳥たちくらい。やつらの鳴き声は弾丸の音にそっくりだった。こうしてお互いほとんど黙ってた。
(p98)


戦争の喧騒がずっと漂っているこの小説内で希少な静かな箇所…ただ、小鳥が弾丸を連想させる…自分的にはこの二つが重ならないのだが、実際のセリーヌの戦争体験からすればそうなのだろう。ちなみに解説によると、セリーヌの作品をこれからずっと覆っていくのが頭の中に鳴り響く戦争の騒音なのだが、特にこの「戦争」はそのモティーフが初めて出てきた作品であり一番鮮烈に使われているという。
続いて、両親との再会と父の知り合いでもあるアルナシュ氏の家に呼ばれる章に入る。両親もセリーヌとは愛憎重なる対象であった(少なくとも、この作品中での両親にとっての憎悪というか距離感とは、実際は違ったらしい)。どうして両親が現れたかというと、語り手フェルディナンとは全く関係ない勲章を貰ったから(ここややこしいところだが、実際のセリーヌはこの勲章を貰う正当性のある働きをしている。だから、作品中では「敢えて」嘘を書いているのだ)。この章のテーマ?は両親、アルナシュ夫妻、そして司祭などの「戦前」(第一次世界大戦の)派の断罪。

 目の前で強烈にして究極の、血にまみれた阿鼻叫喚の恥辱と責苦が広がってたって、いままさに飯食っている窓の下でだって、あるいはおれ自身の惨害にだって、やつら頑としてその惨状を受け入れようとはしなかった、なにせそいつを認めるってことはこの世界と人生に対して多少なりとも受け入れるってことを意味するがやつら決して何事にだって絶望なんてことしたくはなかったからだ。
(p117)


絶望とは第一次世界大戦後の、割と新しい事象なのかもしれない。
ちょっとここで、種明かし欲しいと思って解説読んでみた。
「夜の果てへの旅」の後、セリーヌは三部作の構想を立てる。「幼年期、戦争、ロンドン」。これが「なしくずしの死」、「戦争」(当巻)、「ロンドン」となるが、発表されたのは幼年期に当たる「なしくずしの死」のみ。後の二つは今回発見された中に入っていた。といっても、この「戦争」は前半を欠いた原稿となっている。その前半はセリーヌがイーペル近郊で負傷するまでを描いているものだった。

 この「間」、銃後への帰還と前線への参加との両ベクトルが行き交う交点に位置するこの場所の設定は示唆的である。というのも、これこそが、前線と銃後、戦争と平和との境界線が不分明となってゆく宙吊りのトポスとして、本書に固有のナラティブを可能としているのではないかと考えられるからである。
(p259)


この「間」の様相も第一次世界大戦後に新たに産出されたものか。そして、この「間」というものを一番体現しているのがカスカード(べベール)なのだ、と解説は言う。
(にしても、セリーヌの文章、読点無しのまま長く続くものが多い…)
(2024 02/15)

次の章、冒頭のp131とか次に引用するp134の文の辺りなどは、ちょっとプルーストのパロディ風。

 思考ははち切れんばかりに走り回ってる、再び眠りに向けて進撃を開始するがこいつはまるで狩り立てられたウサギみたいなもんだった。堀に行き止まったら、そちらは放っておいて執着しない、別の方角へ向かって再出発、依然希望は抱きつつ。睡眠ってやつは信じがたいほどの拷問続きの小宇宙だ。
(p134-135)


セリーヌのこうした執着しないで新たな方向へ向かうところ、多重世界でそれぞれ生きているような気がして、そこがセリーヌを読む楽しさの一つ。
この章では、病室内でのトランプ賭博に勝ち続けたり、釣りでたくさん釣れたりと、やたらにカスカードがつきはじめる。こういうのは何らかの報せであったりするのだが、それをまさに実践するかのような…カスカードは次の日の朝、捕まってその後銃殺される。
(2024 02/16)

ひとりだけの海

 来る日も来る日も雑草が荒れ放題の頭蓋抱えて、それからなおのこと来る夜も来る夜も工場さながらのこの頭と落下傘で急降下のこの感覚器官抱えておれは心底ウンザリだった。おれは人類なんてやつにほとうに借りは負っちゃいなかった。少なくとも人が二十歳の頃に信じるようないつも心と物事の間に入りこんではゴキブリのごとく良心の咎めを這って回らせる人類なんて観念には。
(p158)


セリーヌの真髄みたいな文…この文と下の同じく真髄文の間に書かれているのが、進駐しているイギリス軍の軍人をアンジェルが引っ張ってきて、絶頂しているところに夫と称したフェルディナンがやってきて金を要求する、というバルトークの「中国の不思議な役人」か(ちょっと違う…)という内容なのが、これまたセリーヌ。
こうして、そんなカモにした軍人の一人に誘われて、フェルディナンはイギリスに渡る(そこからは三部作構想の最終「ロンドン」)。

 おれはあらゆる船酔いをおれ自身の内部に抱え込んでた。戦争ってやつはおれにも別の海を授けてくれたんだ。おれただひとりの海を、吠えたて、この頭のなか大音響で唸りをあげるおれだけの海を。戦争万歳!
(p179)


海は何の比喩なのかな(当人的には別に何もないのかもしれないけど)。「戦争万歳」という叫びも、複数の、新しい思想の戦略としても、やぶれかぶれな叫びとしても、いろいろ取れる。

というわけで、今日というか昨夜から今日に入りたての頃読み終えた。次のセリーヌも考えてみる。というか今日図書館で「なしくずしの死」見たけれど、「夜の果てへの旅」より厚そう。こっちは幼年期らしいのでまた違うセリーヌ体験ができるかも。それより後期のもっとアヴァンギャルドな国書にある方向か。ほんとは一緒に発見されたらしい続編「ロンドン」が読めればそれがいいのだろうけど…
(2024 02/18)

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