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文藝2021年春号…ディストピアものの誘惑(五大文芸誌も読んでみよう…その8)

五大文芸誌…文學界(文藝春秋)、新潮(新潮社)、群像(講談社)、すばる(集英社)、文藝(河出書房新社)

これら五大文芸誌(以外の文芸誌も)の過去号を図書館で借りてきて、読んでみる企画(と言えるのか)。
読むのはもとより存在自体も知らなかった…というテイタラクな海外好き日本文学苦手な自分も、少しは今の日本文学シーンの一端の端っこくらいは味わないと…


「ディストピア小説の主人公とは誰か 嫌視点の作り方」

今号はディストピア作品特集。その中からまず、飛浩隆と高山羽根子の対談を。両者とも作家。

 たくさんの人が社会で生きていくために、ひとつの方向を向いている方が生きやすいという見方があります。でも、そのときに違う方向を向いてしまった人の物語がディストピアなんです。なので、作り手の立場としては、ディストピア文学は視点の物語という意識があります。
(p138)


高山氏の言葉。なるほど…ディストピア小説には、主人公が言葉を奪われる記述が必ずある、という。逸脱した言葉を使う主人公に対し、それを奪う…という。しかし、今は権力側の言葉が変で、作家がそれを教えるという構図になっていて、ディストピア小説には難しい?時期になっている。
ただ、コロナの時期になって(これは2021年春号)、また焦点が当たり始め、現在の日本でのブーム?になっている、という認識。

 何が嫌かを描くし、その嫌さが際立つように、その社会を細かく設定してつくっていく。ディストピアに限らず、設定をつくりこんで世界を設計することをやりたい作家は結構いますね。そのあたりを一生懸命書くことがおもしろい。嫌さを際立たせるのは問題意識の表れでもあるし、腕の見せどころでもある。
(p138-139)


こちらは飛氏の言葉。今回のこの対談は、ディストピア小説の作り方という刺激的な内容で面白い。小説書くかは別として、自分も設定考えてみようかな…
(2024 04/29)

「オキシジェン」

続いて、ディストピア特集の創作部門より、真藤順丈(しんどうじゅんじょう)「オキシジェン」。真藤氏は1977年生まれの作家。名前は本名かどうかはわからないが、ゴロはいい。
話は、大雑把に言うと、ディストピア小説(他ジャンルも)を書くディストピア社会、というもの。外枠のディストピア社会で「創作」のためにと供給されるのがオキシジェン(酸素)。最後には外枠と内枠(こちらはコロナの影響が入っている)が並列視される。
20ページの文量では収まりきらない感じで、も少し長い方がいいのでは、とも思う。この辺は若い世代との認識の差異という気もするのだが…でも、外枠と内枠が干渉し侵食されていく展開も見てみたかったなあ。
ディストピアが国家とかではなく、一企業というのが今日的かな。
(2024 05/03)

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