かぼちゃの煮物

平々凡々な大学生をしています。普段から、人の観察が好きで、人の考えや行動の意味を考えて…

かぼちゃの煮物

平々凡々な大学生をしています。普段から、人の観察が好きで、人の考えや行動の意味を考えています。登山やスキーを少し嗜んでいます。鴨川でのんびりするのにはまっています。音楽を聴くのも好きで、milet、あいみょん、ヨルシカ、tele などなど幅広く聴いています。

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生きることと死ぬこと

生きることとと死ぬことについてよく考える。 生きること なんで生きるのだろうのかの理由は、大きく2つに分けられると思う。消極的な動機と積極的な動機である。 積極的な生きる動機 大好きな趣味がある、推しが尊い、仕事が楽しい、未知の経験をすることに喜びを感じているなど自分が心から楽しんでおり、そのために日々頑張っている場合がこれに当たるだろう。すべてに当てはまるが、好きなことは未来にすることになるため、つまり、明日であれ1年後であれ予定になっているため、その未来のために生

    • 虎になったりならなかったり

      時々、ふと走り出したくなる。 別に、運動したいとかストレスを発散したいとか、そういうことではなくて、単にうずうずしてくる。 とはいえ、こうした突如の衝動性に駆動されて動き出すのは、社会的ではないし、変である。 こういった衝動性は、程度の大小はあれど、多くの人が抱くものではないかと思う。 急な衝動に駆られたり、何もかも投げ出したくなるような、どうにも制御しえないものに日々襲われる。 それでも、何とかすんでのところで社会生活を営めている。 虎にならずに済んでいる。

      • なぜ生きている

        今日、高齢者宅を訪ねた。 消防団の活動の一環として、土日に高齢者宅、特におひとりで暮らされている方のお宅を訪ねて、どないしてますかと雑談する。 そのうちのおひとりの言葉に、考えさせられた。 おいくつですかという話になって、その方が、一言。 「95歳、なぜ生きている。」 すごい心に刺さった。 ただ、毎日を必死に生きて、95年。 若干二十歳の小僧には、重すぎる言葉だった。 もう少し、頑張ってみるか。

        • 大事な石がある。 弟が中学1年か2年の時にくれた石。 海岸で拾った、なんの変哲もない石。というよりも、石ころだといえる。 それを、今まで大事に持っている。 そのことをこの前弟に言っても、そんなことあったっけと言っているくらいだから、他意なくくれたのだろう。 でも、中学の多感な時期に、お兄ちゃんにあげようと思って石を拾う。その健気さが可愛くて,今も思い出ボックスに入れている。 この石をときどき思い出して,弟が可愛くてたまらなくなる。

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        生きることと死ぬこと

          何がいいかもわからないので

          本を探しているときに、ふと気づいた。 効果を求めているなと。 自分がこの本を読んで、何か知識を得られたり、人生に影響を与える感動を抱いたりできるかもしれないと。それもコスパよく得られたらいいなと思ってしまう。 サプリを選んでいるのと同じである。 ビタミンEや鉄分を選ぶのと同じように、感動のために小説を、自分を見つめるために哲学書を選ぶ。 その選択をしても、何かしら得られるかもしれないが、自分が想定する以上のものは得られない。 何かを得ようとしているその姿勢からは、

          何がいいかもわからないので

          何もない日々の中、今日皿を割ってしまった。マンネリな日々を壊してくれる、そんな感覚がした。快感を覚えた。

          何もない日々の中、今日皿を割ってしまった。マンネリな日々を壊してくれる、そんな感覚がした。快感を覚えた。

          起きている合間に寝ているのか、基本寝ているのか

          思春期くらいから、寝ても寝ても眠たい体になっている。 毎日7時間寝ても、授業は必ず寝るし、ご飯を食べたら必ず眠たくなる。 ひどいときは、学校からの帰り道に自転車を漕いでるとき、寝てしまうこともあった。 幸い事故になったことはないが,常に眠気が襲ってくる状況にあった。 浪人しているときも、1日の授業全て寝ることもあり、1日に3回は居眠りしていた。 大学になってからも変わらないが,最近拍車がかかってきて、眠たいことを知覚する前に寝ている。 寝ることはそういうものなのか

          起きている合間に寝ているのか、基本寝ているのか

          はやく来ればいいものでもない

          遅刻は問題だが、早く来るのもまた違う。 消防団の訓練で、先週毎日19時半に集まる必要があった。 その初日に言われた時間に行ったのだが、すでに用意されている。 聞けば、19時20分くらいに来て用意するものだと。 何言ってんだ? いやいや、それなら7時20分集合だし、その理論だと、どんどん集合時間が早くなる。 時間通り来た人が、変に気を使うことになるし、それは時間を守っているというわけではない。  物心がついた頃から、5分前集合を求められてきたが、いまだに理解できた

          はやく来ればいいものでもない

          希死念慮に救われる世界線

          希死念慮。 少なくとも高校生の時から、自分が死ぬことを想像してきた。 本当に死のうとしていたわけではないが、なんか突然あっちに行かないかなと考えることは、数えきれないほどあった。 そういう考えに救われてきた。 いざとなれば死ぬことができる、という自分が終わる可能性に一縷の希望を見出して、日々頑張っているなと最近思う。 仕事が嫌な人へのアドバイスとして、とりあえず一か月後にやめることにして、この一か月は頑張ってみようという助言がよくある。それは、勉強でも部活でもなんで

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          「50人増やしました」

          グループ面接で勉強になることがあった。 受験者3人と面接官の方2人の面接。 自己PRや挫折経験やらを話していくのだが、うち1人の話し方が非常に「ためになった」。 サークルでの新刊や企画で、人を集めることに苦心したことを話していたのだが、具体的な数値を挙げて筋道を立てて伝えていた。 あたかも何回も練習したように。 練習感が伝わるが、それでも澱みなく話せる、そのくらいのレベルまで磨いていた。 僕は、斜に構えているから、あえて数値的なことを言わなかったが、こういう人が就

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          待つということ

          鷲田清一『「待つ」ということ』(2023)を引用しながら、待つことの本質から見たコミュニティの重要性を考えてみたい。 鷲田は、現代社会を、待つことができない社会と形容する。 待ち合わせでも、LINEのメッセージ1つで、遅れることを伝えれば、相手は待つ時間を、読書や買い物、喫茶店での一服に使える。 相手が来るのか来ないのか、そもそもこの時間で合っていたのかも分からないところで、ただひたすらに待つ必要性がなくなった。 待つことをしなくてよくなった。同時に待つことができなく

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          打っても返らない

          打っても返らない。 最近、つくづく実感している。 大抵、自分がこのように思ってほしくてしたことは、響かない。 打っても返ってこなかった、気持ちを受け取ってくれなかったと思うときは、相手に期待しているのかもしれない。 寂しいけれど、人に期待しない。 人とうまくいかなくても、そういうものだと割り切る。 打っても返らないことが多いからこそ、打たなくても投げてくれる人、近づいてくれる人に感謝して、そんな人との付き合いの中に幸せを見出し行きたい。 去る者追わず、来る者拒ま

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          セルフ・ネガティヴキャンペーン

          不思議だと思うことがある。 一旦謝ったほうがいいと思うことがあった。 バイトで、何度もバイトに来ない子がいる。 なんやかやと理由があって、来られなくなるらしい。 本当に、退っ引きならない事情があるのかもしれないし、別にそれを責め立てることは無粋だと思う。 とはいえである。 この前も来なくて、それまでの時より問題になった。 次の日のシフトには来て、僕もその日入っていたので、バイトのライングループと欠勤して代わりに入ってくれた子に、ラインした方が良いよと伝えた。

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          GODZILLA×KONG 新たなる帝国

          「GODZILLA×KONG 新たなる帝国」 おもしろい。 規模が大きいので、バトルも迫力があって、終始興奮する。 ただ、とりわけ感動したのは、鍵となる少女ジアの演技である。 ジアは、部族の生き残りで、引き取られていてアメリカで暮らしている。英語がわからず、自分の言語も他の人はわからないので、映画の中で一言も発していない。それか、話せないのかもしれないが。 そのため、自分の感情を表現する手段が、表情としぐさだけになる。 この表情の変化に感動した。 感情の襞をうま

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          どうにもこうにも

          いえ、余り憂鬱ですから、逆まに世の中を眺めて見たのです。けれどもやはり同じことですね。 芥川龍之介『河童』の一節。 逆さまに世の中を見れば、見方は変わるが、それでもやっぱり現実は変わらない。 如何にもこうにもならないときもある。 言われてみればその通りだが、河童のセリフであったから、なんか心に響いた。 逆さまに世の中を見て、なにか気持ちが軽くなればいいのにな。

          どうにもこうにも

          なんと言えばいいのか

          言語化できないもどかしさがある。 昨年に見学させてもらった屠畜場で覚えた感情を、いまだに言語化できていない。 日々他の生物の命をいただいていることへの感謝とか生々しさへの気持ち悪さではない。 そんな高尚な感情ではないが、なんて表現するべきか分からない。 この前行った、大阪中之島美術館のモネ展で感じたことをうまく掲揚できていない。 光の微妙な違いをうまく捉えている描写をうまく表せる形容詞がありそうだが、出てこない。 語彙力の問題なのか、表現力の乏しさなのか。 本を

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