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『LIVE!』 ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ

 映画『ボブ・マーリー:ONE LOVE』がもうすぐ封切られる。
ボブ・マーリーは、レゲエは民衆のための歌で世界が良くなると信じていた。ピュアな人だ。
だから世界中から愛されているんだ。
2024年5月


 レゲェは比較的新しい音楽だ。60年代初頭にジャマイカではスカというビートミュージックが流行し、それがレゲェに発展した。だからレゲェが世界的に広まっていくのは1970年代に入ってからだ。クラプトンがボブ・マーリーの「I Shot the Sheriff」を取り上げたことが引き金となり、作者のボブ・マーリーとレゲエは世界のヒットチャートを席巻するようになった。ローリング・ストーンズやデビッド・ボウイ、レッド・ツェッペリンなんてバンドがみんなレゲェに揺れた。
日本は世界から遅れていたので、最初は「ニューミュージックマガジン」の中村とうようが、「レガエ・ミュージック」なんて言って紹介していた。レゲェに対し敏感に反応した日本のミュージシャンは加藤和彦ぐらいだったと思う。
さて、そのレゲェだが、誰もが認めるレゲェの王様はボブ・マーリーだろう。
 日本でも1979年に公演を行っている。僕はこのライヴに行くことができなかった。中学のテストがあり、どうしても行くことができなかった。これは、今でも悔やんでいる。中野サンプラザでは当日券も発売されていたのに・・・。
 ボブはトレンチタウン(ジャマイカ・キングストンの下町)で過ごし、アメリカから聞こえてくるラジオに耳を傾け、R&Rに夢中になる。16歳の頃、カリフォルニアに渡り、レコーディングをするが全く相手にされず、傷心のまま帰国する。ウェイラーズを組み、音楽活動を再開させ、セカンドアルバムの『Burnin』(1973)は、「I Shot the Sheriff」や「Get Up, Stand Up」を収録。話題となり全世界で一大レゲェブームが起きる。イギリス・ライシアム・ホールで行った実況録音盤『LIVE!』(1975)は鬼気迫る演奏とそれまでのベストな選曲だ。名盤だ。

 ボブ・マーリーやレゲェが世界的に広まっていくと当然バッシングも増えることになった。ラスタやマリファナについて世間の目が向けられたのだ。
ある時、ボブに批判的なアメリカの女性キャスターとのインタビューでボブは、こんな言葉を残しているのだ。
女性インタビュアー 「ラスタファリズムは、米国、カナダでは評判が悪く、麻薬や暴力との関わりが強く、逮捕の対象になります」
ボブ 「キリストは十字架に架けられた。クリスチャンのキリストでさえ・・・」
女性インタビュアー 「現実に戻りましょう。麻薬を正当化したりすることは・・・」
ボブ 「良く聞いてくれ。神に誓って違法だといえるかい。」
マリファナはラスタでは聖なる煙である。
ボブはワールドツアーを行う際、どこにでもマリファナを所持していたという。いつも紫の煙を吐きながら、瞑想していた。音楽を通して権力との闘争と訪れるべき自由と平和を歌い続けた詩人であるボブを誰も止めることができなかった。日本公演もジャマイカからの親善大使という名目で入国が許され、公演を行った事実もある。翌年、成田でパクられたポール・マッカートニーとはえらい違いだ。
 ボブはジャマイカで対立する政党の間に入り共同宣言をおこなったり、戦争危機に陥る国内に対し音楽という物資で主張を繰り返した。時に反対勢力から狙撃される危険にもさらされたが、それでもとりつかれた様に音楽活動を続けた。80年9月、ジョギング中に倒れ脳腫瘍が発見されるが、そのときに組んでいたツアーの予定をキャンセルすることを拒否した。最後まで歌い続けたのだ。ジャマイカ独特の宗教ラスタファリズムに基づいた歌詞で、国境や民族を超えた愛を説き続けたが、その年のピッツバーグでのライヴを最後にツアーは中止された。
36年と言う短い生涯のなかで数々の名曲を残した。葬式は、国葬となり、多くの国民が深い悲しみに包まれた。
 バニー・ウエイラー、ピーター・トッシュらと共にレゲェを広めた伝説のバンド・ウェイラーズで、ジャマイカから世界を揺り動かした男。
過激な歌をファンキーなリズムでパフォーマンスするボブ。
今の時代に生きていたら湾岸戦争やアフリカ、コンゴなどの民族紛争など憂い、その地に赴き歌うのだろう。

2005年9月1日
花形

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