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本の情夫(ヒモ)になる――ボルヘス主義者・高山宏から照射される平岡正明の逆説

「蔵書を六畳一間に敷き詰めて高さが5cmを越えたものは革命家の資格がない」

と平岡正明が言った言葉の含蓄は深い。裏を返せば、その人の「コア」となる書物の上限が概ねその程度ということで、それ以外はテクストの味付け程度にすぎない。万巻の書を繙いた(ということになっている)ボルヘス主義者・高山宏は、むかし僕に意外な言葉を漏らした――「本棚の写真を見せることの悪趣味」。

たしかにツイッターをのぞけば本の「容姿」および「組み合わせ」ばかりを気にするブックポルノ画像が氾濫している(秋元康がアイドルを扱う手つきと何が違うのか?)。実のところ僕は「(造本的に)美しい書物」が大好きだが、ややアイロニカルに「本なんて読めればいい」とも思っている。本とポルノ的関係を取り結ぶことへの罪の意識。

そもそも「書物への愛」を表明する文弱気質を好きになれない。本をフェティッシュの対象とすることは(古臭いが)世界からの疎外を招く。「所詮本なんて……」という反書物愛のアイロニーによって、逆説的に愛の表明をする心理的ディスタンスが求められる。

ようするに「バベルの図書館」とはイメージとしての書物なので、その世界はカギ括弧付きの「世界」にならざるを得ない。それを弄ぶ術を僕はそれなりに心得ているつもりだが、そのイメージに弄ばれているのもまた自分、という捉え返しなくば表現者とは呼べない。

つまり「図書館から学んだことなど何もない」という平岡正明の言葉にも一理ある、と気づけるか気づけないか。「15万冊を読んだ」(自称)という高山宏が「本を読むと馬鹿になる」いった卓抜な逆説はそのことを端的に物語る。

本を愛するからといって、本に愛されるとは限らない。恋愛において「あんたなんて好きじゃない」という態度が逆に相手を惹きつけることがあるように、書物に対してもベタベタ愛を表明するのでなく、クールさを見せつけなければならない。あるいは本を「使える」ものと見なすジゴロ的態度が必要というべきか。本の奴隷になるのでなく、本の情夫(ヒモ)になろう。

※サムネイル画像は「バベルの図書館」の版画シリーズで有名なErik DESMAZIERES

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【図】著者直筆。玄関前で煙草を一服しているときに思いついた「思念の煙」(リチャード・クライン)を急いで原稿用紙に落とし込む。20分くらいかかったこの作品(?)も本来ならお蔵入りだが、頭脳警察のパンタさんがnoteをやっているという衝撃に後押しされて、WEB公開してみた。

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