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【805回】藤原正範「罪を犯した人々を支える」

例えば、相模原障害者施設殺傷事件のような大変な被害を及ぼした殺人事件の裁判報告は、報告されていると思う。
この本は、小さな小さな裁判の様子を丁寧に描写した本である。「覚醒剤、窃盗、詐欺」といった目立たない小さな事件の裁判傍聴記録が提示される。

罪を犯した人にとって裁判が、社会との信頼関係を回復するための誘いの場となりえているかどうかを、厳しく点検してみたい。

(p17)

というのが、この本の趣旨である。

第四章「社会福祉士が刑事裁判の支援する」とあるように、読み終えて、司法には福祉が関わってきていることを確認した。
犯罪者の高齢化、障害がある人の増加、生活困窮者の累犯者化という状況では、執行猶予になろうとも、刑を終えて出所しても、この社会に居場所がない。話し相手がいない。孤立してしまう。

憲法25条の生存権は「すべて国民」に当てはある。

刑事司法手続きの中にある人も「すべて国民」の一人である。地域にいる人はもちろん、刑事施設に収容されている人も、更生保護施設や自立準備ホームに入所している人も、その生活はこの憲法の条文に沿うものでなければならない。

(p135)

この指摘は、慧眼だ。忘れそうになってしまう。
その人の自己責任のみにしてしまっては、生存権は保証されない。
これは、どの国民にとっても当てはまることだと思う。

終章「社会の責任として」まで読み通せば、著者の静かな言葉が身にしみてくる。

「犯罪を生み出すのは社会であり、社会の傷として犯罪が生み出される」

(p203)

僕が考えるのは、生徒のことである。
小さな失敗をした子どもに対して、「あの子はすぐ嘘をつく」「宿題を忘れる」「文句ばかり言う」など特定の視線を持ちすぎて関わっていないか?
「嘘をついた」子どもがいて、学校社会に戻す。「どうせ嘘をつくのでしょう」という視点でこの子を見ていては、この子が努力して救われる場所はない。

これは、社会の中で累犯者を作る流れと同じではないか?
つまり、居場所を確保するためには、福祉の力と、加害者を責めないような社会側の寛容さが必要なのだと思う。


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