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暗い森の少女 第一章 ⑥ 初恋

瀬尾くん


散る桜の落ちる音が聞こえてきそうなほど、静かな入学式だった。
新入生、9人。
大きな体育館は、新入生、在校生、教員、父兄を飲み込んでも、まだまだ余裕があった。
保育園からの持ち上がり組も多いが、別の幼稚園、保育園から入学してくる子供もいる。
見知った顔、初めて見る顔、みな、少し緊張した面持ちで、校長先生の話を聞いていてた。
制服のない学校だったので、花衣は母の選んだピンクのワンピースを着ていた。
しかし他の子供たちは、合わせたように紺色のシャツにズボンかスカートという服装だ。
なんだか自分だけが新入生の中で違っいるような、場違いな気がして花衣は恥ずかしくなってうつむいてしまう。
(お前の家は普通じゃないから)
保育園のとき、花衣のいじめの首謀者である二つ年上の男の子は、よくそう言った。
(まともな人間は、毎日毎日ちゃらちゃらした格好もしないし、昼から酒を飲んだりしないんだってよ)
ちゃらちゃらした格好というのは、どんな格好なのだろう。
祖父が生きていたときはスーツで仕事に行っていたし、叔父たちも会社の制服で出勤する。
母は、色鮮やかなツーピースか、パンツスーツで出かけていくことが多い。
今日も、他の母親がお仕着せのような地味な黒いスーツ姿の中、母だけあざやかな別珍の緑のスーツを着ている。
確かに、周囲に母のような服装の人はいなかった。
しかし、たまに合う母の友人は似たような、しなっとした柔らかく綺麗なドレスのようなワンピースや、反対にぴったりとしたジーンズにさらっと男物のシャツを着ているようなひとが多い。村ではジーンズをはいているひとを見ることはない。
それよりも、花衣には不安なことがあった。
(昼から酒を飲む)
それは、下の叔父のことだ。
祖父が生きているときは、夜しか飲まなかった酒を、休みの日は昼間から飲むようになってしまっていた。
そして、花衣への折檻も、昼に行われる。
「花衣が悪い子だから、おじちゃんも怒るの。おばあちゃんが花衣をちゃんとしつけていないから、おばあちゃんが悪い。ごめんね」
空になった一升瓶を投げつけられたとき、花衣は思わず体をそらした。
後ろにあったテレビのブラウン管が、鈍い音を立てて割れる。
「よけるなよ!」
叔父は花衣の胸ぐらを掴み持ち上げて、畳に放り投げる。
「お前のせいだからな! お前が全部悪いんだ!」
「顔はやめて、見えるとことはやめて」
農村の一軒家とはいえ、派手な音や怒声は外までもれているのだろう。
祖母はそのことを恥じて、夏でも下の叔父が酒を飲み出すと家中の窓を閉めた。
誰も助けてくれない。
花衣が悪い子だから。
(叩かれる私は、恥ずかしい子供だから)
家族の誰も助けてくれない環境で、花衣は殴られることは恥ずべきことと思い込んでいた。
だから、他人には話せない。
けれど近所でそんな噂が流れているとしたら、それを下の叔父が知ったら、どんなに怒られるだろうか。
花衣は、混乱して涙ぐみそうになる。今が入学式という、6歳の少女にとって晴れがましい舞台であることなど感じることもできなかった。
「では、新入生の紹介をはじめます」
花衣の気持ちなど慮ることなどなく、式は粛々と進められる。
「誕生日順で呼びましょう、では……」
4月生まれの男子が、名前を呼ばれ、立ち上がり、自分で名前をいい在校生に頭をさげる。
同じ保育園に通ってた子だ。
新入生が9人しかいないので、10月生まれの花衣は、7番目だ。
あんな風にできるだろうか。
100人ほどの少数な学校ということも、教員は地元の人間はひとりもおらず、花衣を特別視することもないということも、分からない。
怖い。
家庭内では叔父たちの暴力や暴言にさらされ、葛木の親戚には過干渉なほど可愛がられていた花衣にとって、目立つということはすでに罪悪でしかなかった。
ピンク色の、織り模様で小花が散っているワンピースの膝の所を、関節が白くなるまで握りしめる。口の中はからからに乾いて、声など出そうにもない。
「では、瀬尾くん」
花衣より2つ前の男の子が呼ばれる。
知らない顔。よその保育園からきた男の子だ。
男子は丸刈りばかりの中、その男の子はさらっとした前髪を揺らしながら立ち上がった。
「瀬尾直之です。よろしくお願いします」
男の子は、微笑みながら会釈する。
よく見ると、その子は紺色のシャツではなく、黒に近い灰色のジャケットに半ズボン、中には白いワイシャツを着てネクタイも締めている。白いハイソックスが眩しいほどだ。
しっかりした挨拶に、保護者席からは小さな拍手が起こった。
よく見ると、黒色の母親たちに囲まれるように、綺麗な訪問着を着た女性が、瀬尾にむかって頷きながら手を振っている。
知らない女のひとだ。瀬尾の母親だろうか。
にこっと笑い、瀬尾と呼ばれた男の子は椅子に座る。
(あんなに目立って、恥ずかしくなんだろうか)
花衣は瀬尾のことが心配になってしまい、自分の番になっても上の空で、きちんと立ち上がり挨拶が出来たのかどうか覚えていない。
式が終わり、教室に異動する。
花衣は瀬尾の隣の席になってしまった。
知らない子供がそばにいることに花衣はまたしても緊張する。
「葛木さん」
瀬尾はくったくなく花衣に声をかけてきた。
「よろしくね」
「……うん」
短くしか答えられない花衣に、気を悪くしたようでもない。
先ほど感じが恥ずかしさとは違う、胸の奥がきゅっとするような、苺を食べたとき、頬がぴくっと縮まるような、切ない羞恥心が花衣を襲う。
担任の先生は、中年の女性で、はきはきとしたしゃべりの中にユーモアを加え、子供たちは笑っている。
花衣だけ、その空気にうまくなじめなかったが、そんなことも気にならないくらい、手を伸ばせば触れられる距離の瀬尾のことだけを意識していた。

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