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プルコギ丼を褒めろ。


マガジン #ヤンデルはめんどくさい では、「2通りのめんどくさい」を書いていこうと思っている。


1つは「話題としてめんどくさい話」

医療情報をどう広げていくか、なんてのがこのタイプに相当する。日常を暮らしていく上で、毎日毎日医療と健康、生老病死について考え続けている人間というのは、本質的にめんどうである。癖が強い。常備菜として冷蔵庫に置いておくとヘンな臭いを発する。ただまあ一定のニーズはある。知らん人のニーズのために生きるのってちょいちょいむかつく。


もう1つは、「思考のすじみちがめんどくさい話」

簡単に答えが出ないためにいくつもの仮説を走らせたり、今書いたばかりの文章に自分で反論を思い付いて「俺 VS 俺」の形式で書いたりする文章。ライターには敬遠される手法だし、学術論文でこれをやると基本的に「査読前reject」される。読者はたいてい、「何が言いたかったのかよくわからない」という。無理もない。

でも、「何が言いたいの?」と聞きがちな人は、そもそもぼくの文章の想定読者ではない気がする。ぼくは「言いたいこと」があって書いているのではなく、「どのように考えたいのか」を書いていることが多い。「あなたは味噌ラーメンにモヤシを入れたいの?」と聞かれても困る。ぼくは「モヤシを入れたらどういう味になり、モヤシを入れなかったらどういう味になるのか、なぜモヤシの議論はさっぽろ味噌ラーメンでばかり巻き起こり塩ラーメンでは無視されるのか」を書きたいのだ。ほらもうめんどくさい……。


そして実はもう1つあって、ちょうど今お目にかけたばかりなのだけれど、

「めんどくさい性格のぼく自身のこと」

3通りあるやんけ! というツッコミはめんどくさいので要らない。ぼくは自分自身のことをあまり頻繁には書かない。そもそも最初の2つも結局はぼくがめんどくさい記事を書いているということにすぎないのだが、2つと1つの間にはちょっとだけ違いがある。それは、取り上げているのが「ぼくの周りにあるもの」や「ぼくが生み出した思考の産物」であるか、それとも、「ぼくそのもの」であるのかという違いだ。


今日は、3番目のやつ。めんどくさいぼくの話を書く。

題材は「自分が登壇者であったイベントの打ち上げ」だ。


ぼくはこれまでいくつかの、医療情報関連のイベントに出席して、司会のようなことをしてきた。イベントが終わると当然のように懇親会がある。打ち上げがある。

この打ち上げ、自分がイベントの聴講側だった場合には別になんとも思わないのだが、自分が出演者側だと間違いなく苦痛である。30分くらい参加すると帰りたくなる。帰らないまでも、「席を移動していろんな人と会話をしたい」と公言して頻繁に席を立つ。同じ席には30分以上座っていたくない。

なぜかというと、ぼくはイベントが終わった後、懇親会で自分のことをほめられるのがめんどうだからである。めんどうというか、いやだ。ぼくに対するほめられが発生しない宴会だと安心できる

ぼくをほめてくる人と話していると、何考えてんだこいつ、ぼく自身じゃなくてぼくの生み出したプロダクトをほめろぼく自身じゃなくてぼくがさっきまで出ていたイベントで、ぼくのプロダクトがもたらした場全体のふんいきをほめろ、と急速に機嫌が悪くなる。


唐突だが、ぼくがイベントに向けて用意したプレゼン、あるいはイベントにおける司会進行の仕事は、フライパンで加熱するだけで食べられるスーパーのお手軽食品的なものを目指して作り込んでいる。素材の加工にとても気を遣う。技術と精魂を込める。そして、最後にイベント会場で火が入ればみんなが手軽においしく食べられるように、作っている。

この料理を会場で食べておいしかったよという話はとてもうれしい。


生肉と玉ねぎと香辛料を和えて、パックにしてご用意。お買い求めいただいたら、そのままフライパンに投入してください。お肉の色が変わるまで焼いてご飯にのせればプルコギ丼。味付け不要です! もう付いてるからね!

――加熱しておいしいご飯にのっけただけなのに、すごくおいしかったです!

本当ですか、それはよかった!

――生卵とか割り入れてみたらさらにおいしかったんですよ。

ああいいですね、いやあ、ご用意できてよかった。


こういう会話なら大歓迎なのだ。なのに、なぜか懇親会になると多くの人は、ぼくががんばってご用意したプルコギ丼用味付け牛肉セット(玉ねぎ込みで274 g)ではなく、食品加工責任者(チーフ)であるぼく自身に言及するのだ。

「チーフすごいですね、こないだも油で揚げるだけの冷凍コロッケ出してたでしょう」

「チーフやりますね、ほかにバイトどれくらいいるんですか?」

「チーフはお酒お好きなんですか」

「チーフはどんな車に乗っていらっしゃるんですか」

……うざい! ぼくの話はいい、ぼくの作ったメシの話をしろ。


誇張では無くぼくは本当にこういうことを考えている。これはいつもぼくがツイッターでやっているような業務を効率よく回すための計算尽くのキャラ設定ではない。会ったばかりの人を30分くらいでウザ認定することが日常的に起こる。だがそれはさすがに相手に悪い。ぼくもさすがに通常の脳は持っているので、たったこの程度の会話内容で相手をうざく感じてしまう自分のほうに社会的な問題があるということはよくわかっている(だからいちいちリプライしてこなくていい)。従って、ぼくがそういうウザ認定をしなくていいように、対策をとる。すなわち、30分以上同じ相手と会話しないようにする。



先日このようなツイートをした。

そして書いてみて思った。これは、本当は他の人(ナイショだけどHさんのことだ)を念頭において書いたツイートだったのだが、よく考えるとぼくのことである


ぼくは、自分の自己効力感を満たしてくれるやりとりは大好きだ(だから仕事が好きなのだと思う)。

また、他人の自己効力感を高める手助けをしたいとも思っている(だから本を読んでおもしろかったらばんばん感想をつぶやくのだと思う)。自分がされてうれしいことを他の人にもしているのだ。

しかし、プロダクトそのもの(ex. プルコギ丼用味付け牛肉セット)ではなく、プロダクトの作者そのもの(ex. 食品加工チーフ)を褒めるのは好きじゃない。自己肯定感を他者が操作しようとする構図が苦手だ。そこはむやみにいじるものではないと思っている。

「互いの自己肯定感が自動的に高められそうな場」に自分を置くとき、なんらかのクラスタの中に閉じ込められてしまったような気になる。



先日、ある人の行動を見ていた。

とある作家自身のことをあまり好きになるあまり、その人があまりよくないものを作ったときも、その人が最高にいいものを作ったときも、どちらも同じほめかたをしてしまっていた。

ぼくは身もだえした。

「ある人」も「作家」も、ぼくとはまるで異なる世界線に過ごしている人である。つまりは他人だ。ぶっちゃけ好きにすればいい。それはわかっているのだが、激しい共感性羞恥……羞恥じゃないな、なんていうんだろう、よくわからない、激しい「共感性ウザ認定」をするに到った。

「クリエイターを礼賛するあまりプロダクトに対する愛がないじゃないか、それじゃあ作った本人は浮かばれねぇよ、うっぜえなあ!」

なぜ自分でもここまで嫌悪感が出てくるのかもはやよくわからない。「冒涜」だなーと感じてしまっている。何に対する冒涜なのかはわからない。でも、これはある種の冒涜だと「考えてしまう」自分がいる。能動ではなくて中動態。これまでの人生経験によってぼくの脳は、「作品を差し置いて作者をほめまくる人を見ると何かを冒涜しているように考えさせられてしまう状態」に置かれている。


今日の記事は、1.話題としてはありふれており、2.思考の様式も一本道である。まっすぐに自分語りをしただけだ、しかしめんどくささが半端ない。当マガジンにはこれからも3種類のめんどくさい記事を書いていくが、「3番目」はマジで一番めんどくさいと思うので皆さんも気を付けて欲しい。