どんな私も許すの本当の意味
私は日々の気づきをnoteに記すことが生き甲斐だ。
最近は歯の状態が非常に悪く、食べるという行為が辛く、それが私を憂鬱にさせ、こうなってしまった経緯の責任は、自分なんだと思うと切なく苦しく、後悔ばかりして何もやる気が起きなかった。
こんなふうに追い詰められたような状況の時、ふと気づきがやって来るものなのだ。
私はやっと気づけた。
具合が悪い状態の私を邪魔に思っていたことに。
こんな私は本当の私じゃない!と思う。
こんな私早く消えてくれ!!と強く思う。
私はどう感じたいのかを意識してみる。
私はいつも元気で幸せで満たされていたい。
その為には、身体のどこかが不具合の為、痛かったり不快な状態なのは許せないのだ。
こんな私では幸せになれない!と思う。
本当にそうなのだろうか?
この不調な状態の私はダメなのだろうか?
こうなったのは私の責任でもう手遅れで絶望的でしかないのだろうか?
そう決めつけているのは誰?
こうして突き詰めて行くと、自然に答えが出てきた。
具合が悪い私であってもいいんだ!
ダメな私イコール体調不良の私ではなかったんだ!
ダメな私なんて存在しない。
どんな状態の私であってもここにいていい。
痛いんだね、辛いんだね、しんどいよね、不快だね、とそのままを感じて寄り添う。
早く消えて!とその状態に対して願うのではなく、そのままを感じる。
そしてその幻の痛みや不快さを感じている私を認める。
それが本当の意味での“どんな私も許す”ということだったのではないだろうか?
歯がボロボロになり、歯科が恐くて行けない私は、この自業自得の状況を嫌でも受け入れるしかなかった。
でも無意識に私を責め続けていて、どんな私も許すと意図していながらも、歯に苦しむ私を排除しようと強く願ってしまう私を止められなかった。
それが私の波動を重くしていたように思う。
痛いと感じている私をそのまま認め ここにいてもいいと許可すること。
それを宇宙は促してくれていたのかもしれない。
嫌なことを消そうとすればするほど抵抗が生じて、その現象は際立ち継続するようだ。
脱力しながら そのままありのままで受け入れる。
それが“どんな私も許す”ということなのだと、今回気づいた。
私はこの気づきのおかげで、具合が悪い状態の私に対して、力を抜いて そうか 痛いよねしんどいよね とそのまま受け入れられるようになった。
早く元気にならなければ!と焦り痛いと感じる私ごと、消そうと必死になる私はもういない。
それがなんとも言えないほどの安心感に繋がったのである。
痛くなってもいい、しんどくなってもいい、全部私は許せるようになったのだから。
これからもこうして一つ一つ、頑なな思い込みに気づき手放していこう。
ここまで読んでくださって感謝します。
幸せをありがとうございます✴️
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