無のへこみ/ふくらみから存在へ

無について考えると、無は豊饒で、すなわち動的であり、ある様態ではふと深化し、へこむ/ふくらむ。その動きを均そう、戻ろうとして、常に勢いは余るので、へこみはふくらみに、ふくらみはへこみに転じて非在化する。このへこみ/ふくらみは粒子状や球形などでなく、歪つなクニュッとした形状である。その歪つさがいくつか(数では言えない)まとまり、「有」として存在となった。というのが私たちの宇宙の「存在」のたまたま起源である。極小の存在のまとまりがどれほど重なれば超ひもになるのだろうか。

超ひもの質量はとひとびの整数であるそうだが、そのとびとびさ加減が「この宇宙」の持つ傾向、癖であり、現世の人間が想定し使用する「整数」は不自然に歪められた数列というしかない。

これは言語において「生成」的 generative に言葉ができていく過程と似ていて、数は generative にあらゆる方向に発生している。私たちの数学はその一つの様を私たちの観測できる癖でイメージしているにすぎない。そもそも「数」「言語」と記したが、そんなものは「無い」という捻くれた態度はあり得る。「有る」として生み出されたのが人間の文明なので、数も言語も無いとする態度は破壊的であるものの新文明を予感させる。

また、へこみ/ふくらみと正負の表記をするのは「存在」である私たちの近代以降の都合であって、動的なことが起きたらそれは単に動であって、正負方向を決めるのは「零」を発見してしまったからだ。6世紀頃にゼロを設定したインド人以前の人間は、「無」と「動」を自然に認知していたのではないか。

当前「この宇宙」の癖が、超ひもまでは突き止められているとして、当然「よそ」が「よそ」として発生しているはずだ。「よそ」は「よそ」であり、パラレルユニバースなどではなく、豊饒な「無」の派生物の別のひとつの様だ。だから「よそ」の観測はできない。

以上は宇宙論でも存在論でもなく、「無」論序説。

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