「無の非在」; 高橋恭司氏とのやり取り

*高橋恭司氏は instagramアカウント @kyojipic の写真にずっとニーチェのテキストの引用を添えて投稿していた。2021年11月22日の投稿のテキスト

「いずれにせよヘラクレイトスは、存在とは空虚な虚構だと主張した点で永遠に正しい。『仮称の』世界こそが唯一の世界である。『真なる世界』はただ、外から持ち込まれた虚偽の世界である、
ニーチェ 「偶像の黄昏」からの引用」

を見て、この方には自分の構想が通じるのではないかと感覚を得て、2021年11月25日に初めてダイレクトメッセージを出した。それからのやり取り。

 前田:
初めてメッセージ差し上げます。写真いつも楽しみにしています。

今日のポストにニーチェのへラクレイトスの文言を引用してらっしゃいました。僕も存在について考えることは長年に及ぶのですが、「無が無であることを中止して生じた非在により有が種落とされた」という「無の非在」なるイメージを抱き、一文に記しました。A4だと4枚の長さです。Kyoji さんには共有いただけるものではないかと期待して、僕の note リンクを貼ります。一読いただけると幸いです。

今後も写真楽しみにしてます。https://note.com/djthomasjp/n/na593a412952b

高橋氏:
前田君、初めまして。いつも写真見てくださってありがとうございます。
私事ですが30年位前、灰皿を撮影して皿と変わりがなく、もうちょっと進めると何かの固まりでしたがなく名前がついてなければ何でしかないと思いあたり、ぼくは、名前を見ているのではないだろか。けれど、この問題は誰にも言えないなと。
ある日クルマでラジオを聴いていたら、フッサールをテーマの講義が聴こえて、同じような問題を考えている人がいる事に驚きました。

その後「意識と本質」を読み。道元を知り石井恭二さんを読み、ハイデカーの全集も出ていた最中なので何冊か読みました。僕は、大学にも行ってないし、英語すらわからないので、楽しみの読書ですが。10年ほど、本を読む生活、非常に幸せでした。写真の仕事や、マスコミの仕事は、本どころではなかったので… いつか読んでみたかったのです。

最近ニーチェを読んで、ソクラテスの死の解釈を数日前に知り、改めてニーチェに驚いてます。肯定の考え方。ダーウィン批判も、感心しました。

死ではなく感覚を信用する。
サーフェイスとでも言えるかもしれない。ニーチェもまたアイロニカルな思想家でしかないのかもしれないが、興味深いです。

前田さんへの返答になってないと思いますが、、、長くなってすみません。

 前田:
あ、本当に丁寧なご返答ありがとうございます。非常に嬉しくなりました。存在の不確かさをそのものとして引き受けた者にだけ抱くことができる姿があると考えています。

高橋氏:
ガブリエルを読んでいるころ
(私の)写真集が出て、タイトルは
ワールズエンドです。出版の社長がつけました。が、ぼくが言っていたらしいです。デレクジャーマンの庭の写真について僕が言ったそうです。新実存と違い、ぼくのは感覚、経験、意味という順番になってしまいますが、不思議なことにヘーゲルのお墓の写真も一緒に入ってます。ジジェクと同じように、ヘーゲルにも惹かれているのです。、、ごちゃまぜですいません。 

この年になり肯定の哲学素晴らしいのではと思います。僕の実際の表現は、フロイト的というか、サイコロジックだとは思いますが。時代的にそうなのかもしれません。リンチの時代です。けれどドイツ観念論読む時の快楽的なあの時間もいつも弾かれています。個人的な話長々とすいません。

 前田:ガブリエルも読まれたのですね。ワールズエンド、ぜひ見てみます。ジャーマンの映画The GardenはDVD持ってます。また見てみます

前田:
ワールズエンドを神宮前のShelfで入手しました。

ぼくは長崎で育ち母が被爆者でもあり、戦争は親しみのある事柄です。ドイツに17歳で縁があり1年過ごした時にアウシュビッツを訪れ、たちまちうつ病に追い込まれたような衝撃を与えられました。ワールズエンドの1枚目やもっとも写真枚数の多い、ユダヤ人のプレートはドイツでも大事なものと見つめています。

非常に好きな写真集になりました。ありがとうございます。

高橋氏:
長崎はまだ行ったことがないのですが、歴史的な街ですね。想像絶する破壊だったのでしょうね。
浦上天主堂はかなりの怨念があるかもしれませんね。
前田さん僕も、収容所に行き、衝撃を受けました。人間とは、悪の生き物である事に実は最初から自分で気がついていたのではないか、という恐怖かもしれない。人間に殺されるとは、どんな恐怖なのでしょうか?恐ろしい事です。世界で今、悲しんでいる人に救いがある事を祈ります。

長崎、、存在とは、、なんでしょうか。

前田:存在を、私たち存在であるものが定義しきることは無理だ、というのが僕の得た考え事です。しかし、長崎もアウシュビッツも、存在があまりにも蔑ろにされた時に人は存在の不確かさを突きつけられて、存在とは?と考えざるを得ないのでしょう。

恭司さんの写真には、カメラの背後の眼がその問いを常に引き受けて、シャッターに収めていらっしゃると強く感じました。World's End はだから大好きです。



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