男性と力

男性にとっての行動原理を見てみると力が背景にあるように見えます。力を持ちたい、力を行使したい、力がなければならない、といった恐れや憧れが強くあります。私自身の競技時代や現在の行動を振り返っても、力があると感じられるかどうかで随分自信が変化しました。力があればほっとしていて、力がないと何か不安に駆られるといった具合にです。力を行使しなくてもしようと思えばできるという状態だと安心をします。

男性が憧れる力を、自分の思うように環境を変えられる状態、と定義してみます。敵から自分や身内を守れたり、または欲しいものを手に入れられたり、邪魔なものを排除したりできることは進化のプロセスで重要だったと考えられます。これが外に向いている間は群の生存になりますが、組織のうちを向くとヒエラルキーができるために誰もが力を手に入れられるわけではないということに気がつきます。進化のプロセスで子孫を残せた男性は少数でした。

幼少期の頃、無性に怒りという感情を表に出すことが多かったです。少年漫画でも怒りという感情は自分の殻を破るときや敵を打ち破るときによく出てきました。反対に悲しみや恐れは負の感情として描かれます。男性の社会では怒りという感情が奨励されているので、その空気を敏感に感じ取っています。

力がなければならないと思い、また社会からも要求される中で、自分自身に十分な力がないと気づいた場合自信が失われ、その後屈折した感情とどこかで折り合う必要があります。この折り合いがうまくいかなくなり感情のコントロールで苦しむことがよくありました。

自分には十分な力があるということを認識し安心するために、弱者と思わしき存在に怒りが向かうことがあります。痴漢をする男性のうち半数は勃起していない背景を考察すると、屈折した力への渇望が背景にあるように見えます。またこのような加害男性の一定数はどこかに被害者意識を持っていると言われています。男性が優位でなければならないとした社会の思い込みに巻き込まれてしまったとも言えるでしょう。同じく自らより優秀な女性を攻撃する男性にもそれが見えます。
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十分な力を個人では持ち得ない人が、男性や国籍のようなラベルに力の拠り所を求めることもあります。私には力がないが、そのグループは力を持っていて私はその一員であるということに助けを求めるわけです。ここから抜け出すには無意識に力へ憧れていることや、力がないことを認める恐れるから解放される必要がありますが、それには内省が必要になります。力に憧れていながら、自分個人だけでは不安を感じると男性は群れます。

自分自身の人生を振り返ると、まず力への憧れがあり、力がない自分への恐れや力に抑圧されることへの怒りが生まれ、力を獲得しようとする努力があり、力を行使することの快感があり、実は力に支配されていることからの脱却を試みる、というプロセスだったように思います。未だに自分に十分な力がなかったり、自分を越える力を前にしたとき心がざわつきますが。

外から力を欲している自分を観察できればいいのですが、それはなかなかに難易度が高いです。社会の分断を埋めるには男性が力を求める自らの感情を理解し、折り合える場所を見つけられるかが大きいように思います。

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