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 「新型コロナワクチンを接種する医師が足りない!」

 2021年4月頃、そんな声が私の元にも届きました。同じ業界にいる医師たちもバタバタとしています。あの時はどこの病院でも、大人に新型コロナワクチンを打つ医師をかき集めている状態でした。

 普段、私は小児を相手に診察しています。しかし、この時ばかりは小児科医局からもワクチン接種する人材を出さないといけなくなりました。そこで、人材をやりくりする話し合いのために、とある病院の会議室に集まることとなったのです。

■ワクチン接種の人材を捻出するために


 小児科の医師や研修医たちが集まりはじめた会議室。そこに、1人の高齢男性が「えっと、ここでいいのかな?」と言いながら入ってきました。

 そのことに気づいた小児科の研修医たちが近づいて声をかけます。

 「おじいさん。ここは外来の受付場所ではありませんよ」
 「リハビリをお探しでしょうか。それでしたら、私がご案内いたしましょうか?」

 研修医としては、みんなで気を利かせたつもりだったのでしょう。しかし、男性の顔は見る間に赤くなっていきます。

 「キミたち失礼じゃぞ。わしは、その……!」男性は怒りのあまり声が出ないようです。

場所を間違えて恥ずかしがっていると勘違いした研修医たち。

 「大丈夫ですよ。私が案内しますから」
 「リハビリ室は向こうです。表示わかりにくかったですか?」

 と、さらに笑顔を向けました。

 そのやりとりに、会議室にいた中堅医師たちがようやく気づき始めました。中堅医師たちは、初めは声しか聞こえていなかったので、本当におじいさんが迷い込んできたと思っていたようです。しかし、何気なく会議室の入り口にいる声の主を見て青ざめました。

 なぜなら、研修医たちが「おじいさん」と呼んだ人物は――

おじいさんの正体は…
 「このお方は退官された教授だぞ!バカ野郎!」

 その時、廊下から会議室に入ってきた准教授が大声をあげました。

 「ワクチン接種のために、教授が無理を言ってお願いしたのだ」温厚な性格で有名な准教授がすごい剣幕で怒っています。
 「え……」准教授に怒られた研修医たちは、恐る恐る今までおじいさんだと思い込んでいた男性—……もとい、前教授を見ました。

 顔から湯気が出てしまうのではないかというぐらい真っ赤になった前教授。研修医たちを睨みつけます。

 「ワクチン接種のためにしかたなく来てやったのに……私をみんなでリハビリ老人扱いするとは!ふざけるんじゃない!」

■激高の中 震えあがる医師たち


 前教授が退官されてから10年以上が過ぎています。研修医たちが前教授の顔を知らないのも当然です。

 しかし中堅医師たちにとっては、恐ろしい思い出の数々とともに記憶に刻まれている前教授でした。この前教授が現役の時、カルテの記載が甘いと何度も叩かれて、医療のイロハを厳しく教え込まれました。かくいう私も、「病気の子どものことを第一に考えろ!」と詰め寄られ、怖さで震えた思いを何度もしています。

 そんな前教授が怒鳴っているのです。中堅医師たちは恐怖が身に染みているため、動くこともできません。

 前教授は何も言わずに部屋をゆっくりと一回り。その時、教授が入ってきて来ましたが、さらに恫喝が続きました。なんとも言えない空気の中、教授に呼ばれた地域の開業医たちも会議室に到着したのですが、怒っている前教授を見てみな一様に立ち尽くしています。

 ただ、怒られた研修医たちは、ぽかんとしたままです。まだ事態を飲み込めていないのかもしれません。前教授がどういう方だったのか、その怖さを覚えている人達は、ただただ直立不動で震えるばかりでした。

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