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アメリカにおける中央銀行の歴史 《第一銀行から連邦準備制度へ》

【原題】The History of Central Banking in America
【掲載】
Badlands Media
【寄稿者】
Ryan DeLarme

※原文は【原題】リンクよりご覧ください
※原文をDeepL翻訳し、適宜修正し、掲載いたしました
※翻訳にあたって、しろのさんよりアドバイスをいただきました。ありがとうございました!


ワシントンDC、フォギーボトム(Foggy Bottom 訳注:米国国務省の俗称)のすぐ南、20th StreetとConstitution Avenueの交差点にある威圧的なエクルズビル(Eccles Building)に、連邦準備制度(FED)の理事会本部のオフィスがある(#)。この象徴的な建物には、有名でもあり悪名高くもある、しかし一般的に誤解されている機関が存在している。

では、連邦準備制度とは正しくはいったい何なのでしょうか?

その答えに驚かれる方もいらっしゃるかもしれません。連邦ではないし、準備金もありません。さらに、連邦準備銀行は、正式な銀行ですらありません。ほとんどの人は、連邦準備制度が通貨を管理・印刷していることくらいは知っていますが、その詳細な仕組みについてはほとんど知らないでいます。

連邦準備法以前は、19世紀末に、米国には分散型民間銀行システムと呼べるものがあり、ある意味、資本主義の気まぐれとサイクルに支配され、好況と不況、その他もろもろの良いことがありました(#)。1913年以前は、「国家通貨」は存在しませんでした。その代わり、現代の暗号市場とは全く違う、銀行独自の紙幣を実際に発行していました。

なぜ連邦準備制度を作るのか? 次が簡単な答えです。

数年の間に何度も経済的な「パニックの波」が起こり、銀行や金融機関の支払能力を懸念して多くの顧客が一斉に預金を引き出す、いわゆる「バンクラン(取り付け騒ぎ)」が続発した(#)。このようなパニックを受けて、より安定した経済システムを構築するためのブレインストーミングを行う国家通貨委員会(National Monetary Commission)が設立されることになったのである。

関税、鉄道、企業、あるいは一般的な政治的性質のものであっても、国家通貨委員会の計画で提案された健全な基盤に銀行および通貨制度を置くことに、すべてにおいて匹敵する法律はない。
ウィリアム・ハワード・タフト(William Howard Taft)

この委員会は必然的に連邦準備制度の創設につながった。さて、ここで「連邦準備制度とは何か」という問題に立ち戻ることにする。

連邦準備制度(The Federal Reserve System、Federal Reserveまたは単に「FED」とも呼ばれる)は、アメリカ合衆国の中央銀行制度である。1913年12月23日、連邦準備法の制定により創設された。その誕生は、先に述べたように、一連の金融パニック(特に1907年のパニック)の後であり、金融危機を緩和するために通貨制度の中央管理を望む世論を後押しするものであった(#)。

1930年代の大恐慌や2000年代の大不況など、長い年月をかけて、連邦準備制度の役割と責任が拡大してきたのである。

一言で言えば、連邦準備法では、米国議会が金融政策の3つの主要な目的、すなわち雇用の最大化、物価の安定、長期金利の緩和を定めることを要求していた(#)。最初の2つの目的は、連邦準備制度の "デュアル・マンデート(2つの使命 dual mandate)"と呼ばれることもある。

さて、基本的な説明は終わったので、連邦準備制度が作られたときの、陰湿で卑劣な歴史に入りましょう。

最初の2つの中央銀行

これから述べることの重みを十分に理解するために、長い間、国際的な両替商が存在し、彼らは通常、国家や選ばれた指導者よりも自分たちの方が上だと考えてきたことに注目することが重要である。彼らは、民間中央銀行を設立し、利子を付けてお金を貸し付け(高利貸しとも呼ばれる)、永遠に続く債務によって国々を支配しているのである。

少なくとも「狂った陰謀論者」はそう言っている。

当時、アメリカではすでにいくつかの中央銀行制度が誕生しては消えていった。建国の父たちのかなりの数が、国立銀行制度の形成に強く反対していた。イギリスが植民地をイングランド銀行の通貨管理下に置こうとしたことは、多くの人にとって抑圧の「最後の藁(訳注:わずかだが致命的な最後の負担の意)」とみなされ、それがアメリカ独立戦争に直接つながったのであった(#)。

しかし、国立銀行の設立に賛成する者もいた。ロバート・モリスという人物は、財務最高責任者として1782年に北米銀行(Bank of North America)の開設に貢献した。

ロバート・モリス(Robert Morris) ”金融家(the Financier)”

連合規約は、信用証券を発行する主権を議会に与えていた。同年末、議会はイングランド銀行にならって、民間出資の国立銀行を設立する条例を可決した(#)。

しかし、「憂慮すべき外国の影響力」や「架空の信用」という反対意見があり、国立銀行としての本来の役割を果たすことができなかった。

1791年、モリスの元側近で、当時財務長官であった建国の父アレクサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton)は、モリスの10年前の銀行プロジェクトの継続を確保するため、南部議員との妥協案を受け入れることになった(#)(#)。その結果、第一合衆国銀行(First Bank of the United States)(1791-1811)は年内に議会で認可され、その直後にジョージ・ワシントン(George Washington)自身によって署名された。

同じような中央銀行のイカサマが根付き始めるまで、そう時間はかからなかった。第一合衆国銀行は、創設者の多くが忌み嫌ったイングランド銀行をモデルとしていたが、今日の中央銀行とは多くの点で異なっていた。例えば、この銀行は外国人が一部を所有し、利益を共有していた。また、通貨供給量の約20%しか担っておらず、残りは州立銀行が担っていた。

建国の父たちは銀行に激しく反対したが、国際的な両替商たち(ロスチャイルド、シフ、ウォーバーグなど)は銀行を賞賛した。トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson)は、銀行が投機、金融操作、腐敗の原動力となると考えた(#)(#)。ハミルトンとは対照的に、ジェファーソンは州が独自の銀行を設立すべきであり、国立銀行は都市部の裕福な実業家を田舎の農民よりも不当に優遇すると考えていた。

1811年、20年間の認可期限が切れ、イギリス出身の中央銀行家ネイサン・ロスチャイルド(Nathan Rothschild)が次のように脅したにもかかわらず、議会は更新をしなかった。

「認可の更新申請が許可されるか、それとも合衆国が最も悲惨な戦争に巻き込まれるか」(#

1年後、約束通り、何千人ものアメリカ人がイギリスとの戦争で死ななければならなくなった。しかし、イギリスはまだナポレオンと戦っており、大した攻撃はできなかった。戦争は1814年、アメリカは無敗のまま終わった(#)。

その5年後、連邦政府はその後継となる第二合衆国銀行(the Second Bank of the United States)を設立する。ジェームズ・マディソン(James Madison)は、この5年の間に国を悩ませていたインフレの暴走を食い止める目的で、この認可書に署名した。この銀行は、基本的に第一合衆国銀行のコピーであり、全国に支店を持つものであった(#)。

1828年に大統領に就任したアンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)は、この新しい銀行を 「腐敗の源」だと糾弾している。1833年9月10日、ジャクソンは国立銀行である第二合衆国銀行を今後使用しないことを発表した。そして、行政権を行使して同銀行からすべての連邦資金を排除し、「銀行戦争」と呼ばれる最後の一撃とした(#)。ジャクソンは銀行を解散させることはできなかったが、1836年に終了した同銀行の認可の更新を拒否した。

銀行の世界では、連邦準備制度ができるまでに、「自由銀行制」の時代と「国立銀行」の時代という2つの時代が続いた。

金融詐欺と連邦準備制度の創設

ここで一旦、今後重要となる名前に親しんでおきましょう。

ロスチャイルド(Rothschild)銀行を知らない人のために簡単に説明すると、この一族とその支族は、過去500年にわたり、文明世界において、特に中央銀行に関して絶大な影響力を持っている。

クーン・ローブ商会(Kuhn, Loeb & Co.)は、1867年にアブラハム・クーン(Abraham Kuhn)と義兄のソロモン・ローブ(Solomon Loeb)によって設立されたアメリカの多国籍投資銀行である。ローブの義理の息子でロスチャイルドの代理人とされる(#ジェイコブ・H・シフ(Jacob H. Schiff)の指導のもと、19世紀末から20世紀初頭にかけて最も影響力のある投資銀行のひとつに成長した(#)。

もう一人、ロスチャイルドの代理人とされるJ・P・モルガン(J.P. Morgan)も重要な役割を果たした。モルガンは、チェース・マンハッタン(Chase Manhattan)、モルガン・スタンレー(Morgan Stanley)、ドイツ銀行(Deutsche Bank)という世界最大の銀行3社の前身であるJ・P・モルガン アンド カンパニー(J.P. Morgan and Co,)の創設者であった(#)。

1900年代初頭、世界の両替商たちは、すでにアメリカにもう一つの民間中央銀行を設立することを切望していた(#)。ロスチャイルドの取り巻きとされるジェイコブ・シフは、当時クーン・ローブ商会のトップだったが、ニューヨーク商工会議所での演説で次のように述べた。

「信用資源を適切にコントロールする中央銀行を持たない限り、この国は歴史上最も深刻で広範囲な金融恐慌に陥るだろう」(#

この言葉は、ある人は戒めとして、ある人は脅しとして解釈されている。その直後、銀行が攻勢に転じた年がやってくる。

1907年、J・P・モルガンとその仲間たち、通称「マネー・トラスト(the money trust)」が密かに株式市場を暴落させたと広く信じられている。このグループは、何千という小さな銀行が膨大な債務超過に陥っていることを認識していた。中には、部分準備金制度の下で1%の準備金しか持っていない銀行もあった。やがて、銀行の経営破綻が全米で頻発するようになる(#)(#)。

一般的には、銅の大物であるF・オーガスタス・ハインツェ(F. Augustus Heinze)が、ウォール街の精力的な銀行家としても描かれており、銅市場を追い詰めようとした結果、一連の複雑な出来事を通じて、多くの大手銀行への取り付けが行われたというのが通説になっている。このパニックのさなか、J・P・モルガンが銀行界を救うために現れ、銀行準備金の大幅な減少と市場の崩壊を鎮めるという、英雄的利他主義に基づく行動をとったのである。そして、モルガンは金融の英知を示す存在として、また国家の救世主としてもてはやされるようになったのである(#)。

モルガンは急襲してマーカンタイル・トラスト(the Mercantile Trust)をはじめ、最も大きな打撃を受けた2大銀行、トラスト・カンパニー・オブ・アメリカ(The Trust Company of America)とリンカーン・トラスト(Lincoln Trust)を含む6つの信託会社、銀行を吸収した。モルガンのギャランティ・トラスト(Guarantee Trust)とマンハッタン・トラスト(Manhattan Trust)がこれらを支配することになり、ロスチャイルド家の米国使節、オーガスト・ベルモント(August Belmont)(#)が合併の指揮を執ることになったのである。彼は、彼のバンカーズ・トラスト(Bankers’ Trust Co.)の競合会社であり、全米最大級の信託会社であるニッカーボッカー・トラスト(Knickerbocker Trust)の救済に協力するとチャールズ・バーニー(Charles Barney)に約束したが、計算づくの残酷な行為で、土壇場で白紙撤回することになった。

その直後、バーニーは自殺してしまった。

1908年、広範な金融パニックが収束すると、モルガンは当時の傲慢とまでは言わないまでも、無神経と言われたプリンストン大学総長ウッドロウ・ウィルソン(Woodrow Wilson)によって英雄と称された。

「J・P・モルガンのような6、7人の公明正大な人物からなる委員会を任命して、我が国の事務を処理させれば、この手の問題はすべて避けられるだろう」(#

しかし、彼の行動を厳密に検証した多くの人によれば、モルガンは経済破壊を糧とする怪物であったという。いずれにせよ、モルガンの行動によって、銀行の権力は少数の大銀行にさらに集約されることになった。そればかりか、ニューヨークの銀行に対する怪しげで予測不可能な攻撃は、結局、アメリカ史上最大規模の企業統合のきっかけとなったのである。

なぜ、このような背景が重要なのかは、後にご紹介します。我慢してください、そうすれば全体にわたる壮大な計画が見えてくるはずです…。

この騒動の後、セオドア・ルーズベルト大統領(Theodore Roosevelt)は、「国家通貨委員会」を設置する法案に署名し、法律として成立させた(#)。この委員会は、銀行問題を調査し、議会に勧告することになっていた。当然、委員会は金融エリートの友人や取り巻きで固められた。

委員長はロードアイランド州出身のネルソン・オルドリッチ上院議員で、アメリカの富裕な銀行家の本拠地であるロードアイランド州ニューポートの代表という、要するにコネがあったわけだ(#)。

ネルソン・オルドリッチ(Nelson Aldrich)

オルドリッチ家はロックフェラー家と合併し、アメリカで最も深く根付いたエリート血統のひとつとなる。彼の娘はジョン・D・ロックフェラー・ジュニア(John D. Rockefeller Jr.)と結婚し、二人の間に5人の息子(1974年に副大統領となるネルソン・ロックフェラー(Nelson Rockefeller)、外交問題評議会(CFR)の会長となるデビッド・ロックフェラー(David Rockefeller)を含む)をもうける(#)(#)(#)。

この国家通貨委員会の設置後、オルドリッチ上院議員は直ちに2年間のヨーロッパ視察旅行に乗り出し、ロスチャイルド家が支配するイギリス、フランス、ドイツ(#)の民間中央銀行家とじっくりと協議した(#)。オルドリッチは、11月22日に2年間のヨーロッパ視察旅行から帰国した。その直後、おそらく、最近の不安定な情勢を利用して時の試練に耐え得る新しい中央銀行を作ろうと考えていたのであろう、アメリカの富豪たちがオルドリッチ議員の専用車両に極秘裏に乗り込んでいる。

[この物語は、G・エドワード・グリフォン(G. Edward Griffon)が『ジキル島の生きもの(The Creature from Jekyll Island)』という作品の中で語っているものである。グリフォンは多くの創作上の自由を与えたが、この本のある側面は真実のままであり、ある側面には異議を唱えるものである]

その中には、前述のロスチャイルド系のクーン・ローブ商会から当時年俸50万ドルを得ていたポール・ウォーバーグ(Paul Warburg)も含まれていた。この給料は、表向きはアメリカの民営中央銀行設立のためのロビー活動をするためのものだった(#)。

また、ジェイコブ・シフも出席していた。ロスチャイルド家、ウォーバーグ家、シフ家はすべて婚姻関係でつながっているので、これらの参加者は本質的に同じ拡大家族であったということが重要である(#)(#)(#)。

この会議では、使用人に正体を知られないように、参加者全員がファーストネームで呼ぶように注意されるほど、秘密厳守が徹底されていたという。

ジキル島に注目する人たちの批判は、一貫して鼻持ちならない、見下したような発言ばかりである。彼らの批判の総意は、ジキル島の会議は陰謀論的なナンセンスに過ぎないというものだ。しかし、この批判者たちは誰もその場にいなかったし、その場にいた人たちの歴史的資料を見れば、陰謀は十分に示唆されている。

会議から数年後、参加者のうちの一人、ロックフェラー家を代表するナショナル・シティバンク(National Citibank)の頭取フランク・ヴァンダーリップ(Frank Vanderlip)は、『サタデー・イブニング・ポスト』紙の中で、このジキル島訪問を次のように語っている。

「私は、陰謀家と同じくらい秘密主義者だった…。私たちが知り得た「発見」は絶対に気づかれてはならない。さもなければ、費やした時間と努力はすべて無駄になってしまう。私たち特定のグループが集まって銀行法案を書いたことがバレたら、その法案は議会で可決される可能性は皆無に等しいからです」(#

中央銀行の設立だけが課題ではなかった。一つに、他の2万行の国立銀行をいかにして自分たちの支配下に置くかということ、さらに、国内経済が好調で、企業が大銀行から多額の融資を受ける代わりに、自らの利益から事業拡大のための資金を調達し始めていたことも、銀行家たちの課題であった(#)。

基本的に、アメリカの産業界は両替商から独立しつつあり、両替商はそれを許さないという考えであった。

ジキル島会合からほどなく、「オルドリッチ法案(Aldrich bill)」が議会に提出され、審議されていた。

「オルドリッチ法案」は、銀行家を利するための法案であることが、あっという間に見抜かれてしまった。このことは、議員を含む多くの人々を不愉快にさせた。そこで、「プジョー委員会(Pujo Committee)」と呼ばれる議会の小委員会が作られ、モルガンと他のウォール街の銀行家たちを調査することになった。

ここで、先ほどのJ・P・モルガンと1907年のパニックが巡り巡って再注目されることになる。

委員会の報告書によると、モルガンを中心にロックフェラー、ウォーバーグ、シフなどがアメリカ全土の主要な製造、輸送、鉱山、通信、金融市場などを支配していたことが判明した(#)(#)(#)。

討論会で、共和党のチャールズ・A・リンドバーグ(Charles A. Lindbergh)はこう述べた。

真の目的は、通貨委員会を設立して、マネー・トラストに有利な通貨・銀行法改正案を作成することでした。利害関係者は現在、オルドリッチ案に賛成するよう人々を教育するために、あらゆる場所で忙しく活動している。この目的のために、多額の資金が調達されたことが報告されている。ウォール街の投機は1907年のパニックを引き起こした。預金者の資金は、ギャンブラーやマネー・トラストが優遇したい人物に貸し出された。そして、預金者がお金を欲しがったとき、銀行にはお金がなかった。それがパニックを引き起こしたのです(#

「オルドリッチ計画はウォール街計画である。国民を威嚇するために必要なら、またパニックを起こすということだ。国民を代表するために政府から給料をもらっているオルドリッチは、代わりに信託銀行のための計画を提案しているのだ」(#

J・P・モルガンの金融偽旗がなぜこれほど重要な役割を果たしたか、おわかりいただけただろうか。1907年のパニックは、ウォール街のエリートがアメリカの銀行と産業を究極的に支配するために計画的に捏造したものだと、当時多くの人が考えていた。にも関わらず、この大物エリートには何の措置も取られることはなかったのである。

この議論が進むにつれ、銀行家たちは自分たちには十分な支持がないことを悟り、共和党指導部はオルドリッチ法案を採決に持ち込むことはなかった。その代わりに、銀行家たちは民主党に目を向けることにし、民主党の大統領候補であったウッドロウ・ウィルソン(Woodrow Wilson)に多額の資金を提供するようになった。

ウォール街の銀行家バーナード・バルーク(Bernard Baruch)がウィルソン計画の責任者となった。歴史家のジェームズ・パーロフ(James Perloff)がこう述べている。

「バルークは1912年、さながら「ひもでつながれたプードルのように」ウィルソンをニューヨークの民主党本部に連れて行った。ウィルソンは、そこに招集された指導者たちから“教化講座”を受けた……」(#

11月5日、ウッドロウ・ウィルソンが当選し、J・P・モルガン、ポール・ウォーバーグ、バーナード・バルークらは、ウォーバーグが連邦準備制度と呼ぶ新しい計画を進めた。民主党の指導者たちは「グラス・オーエン法案(Glass-Owen Bill)」と呼ばれるこの新しい法案を、オルドリッチ法案とは全く異なるものとして歓迎したが、実際にはほとんど同じものであった(#)。

わかりやすく同じであるのに、オルドリッチ上院議員や、ロックフェラーのニューヨーク・ナショナル・シティバンクの頭取だったフランク・ヴァンダーリップは、この法案を「オルドリッチ法案とは全く違う」と思わせるために、公然と反対を表明するのである。この芝居だけで、国民の疑念を払拭するには十分であった。

フランク・ヴァンダーリップは、数年後に『サタデー・イブニング・ポスト』紙上で、またしてもその事実を暴露した。

「オルドリッチ連邦準備制度は、オルドリッチの名を冠した時点で敗北していたが、それでもその本質的な部分は最終的に採択された計画にすべて含まれていた」(#

議会がグラス・オーエン法案の採決に近づいた頃、オハイオの弁護士アルフレッド・クロージャー(Alfred Crozier)は、操作された公論にもかかわらず、この2つの法案の類似性に気づき、その後こう述べた(#)。

「この法案は、ウォール街と大銀行が25年来目指してきたもの、すなわち通貨の公的管理ではなく民間の管理を認めるものに他ならない。この法案(グラス・オーエン法案)は、オルドリッチ法案と同様に完全にこれを達成するものである。どちらの法案も、政府と国民から、国民の貨幣に対するあらゆる有効なコントロールを奪い、国民の間で貨幣を不足させたり、豊富にしたりする危険な権力を、もっぱら銀行に与えるものである」(#

銀行家にとって、議論はうまくいっていないように思われた。上院議員たちは、この法案は腐敗している、ごまかしがある、オルドリッチ法案2.0のように見える、確実に議場で立ち消えになるだろう、と言い始めたのだ。しかし、この法案は12月22日に上院で承認され、多くの人が驚きと落胆を覚えた。

なぜ、こんなことになったのだろう。

単純なことだ。この法案については、休会明けまで何も決まらないと指導部が保証していたのに、多くの議員がクリスマスで家にいる間に投票が行われたからである(#)。

チャールズ・A・リンドバーグ(Charles A. Lindbergh)下院議員は、この法案を全く歓迎しておらず、次のような意見を述べた。

「この法律は、地球上で最も巨大な信託を設立するものです。大統領がこの法案に署名したとき、貨幣権力という目に見えない政府が合法化されることになる。国民はすぐにそれを知ることはできないかもしれないが、報いが来る日は数年後に迫っている…。この時代の最悪の立法犯罪は、この銀行・通貨法案によって犯されているのだ」(#

本音を言えよ、チャック。

興味深いことに、その数週間前の10月、議会は国民の直接所得税を合法化する法案を通過させることに成功したのである。これはオルドリッチ上院議員が押し通した法案で、現在では嘆かわしい修正16条として一般に知られているものである(#)。

所得税法は、連邦準備制度にとって、消せない連邦債務を積み上げるうえで絶対不可欠なものだった。この負債の利子の支払いを保証する唯一の方法は、イングランド銀行で行ったように、国民に直接課税することでした。連邦準備制度が州からの拠出金に頼らなければならない場合、反乱を起こして自分たちの金の利子を払うことを拒否するか、少なくとも債務を小さくするために政治的圧力をかけることができる大きな団体を相手にすることになるのであった。

ちなみに、これは財務的なアドバイスと取らないでほしいのですが、修正16条は批准されなかったかもしれず、その場合、多くのアメリカ国民は所得税を払わなかったとしても、アメリカ政府はそれに対して全く何もすることができないのです。

[この件に関する詳しい情報は、thelawthatneverwas.comをご覧ください](#

1895年、最高裁は憲法修正第16条と同様の所得税法を違憲と判断し、1909年に最高裁は法人税法を違憲としている(#)。

もう一つ、多くの人が、連邦準備制度は政府の機関だと思い込んでいますが、実際には、政府が契約を結んだ民間企業なのである。連邦準備制度をどう見るべきか迷ったら、電話帳を調べてみてください(もし、お近くの美術館で見かけたら)。政府のページには連邦準備制度は載っていませんが、ビジネスのページには載っているはずです(#)。

これが次の問いにつながります。

連邦準備制度は誰のものなのでしょうか?

多くの人が、誰が「連邦準備制度を所有しているのか」を突き止めようと試みてきました。もちろん、連邦準備制度自身のウェブサイトでは 「連邦準備制度は誰のものでもない」と主張しているにもかかわらず、地球上の一握りの大銀行(#)につながる紙の足跡があるのです。

・ロンドン・ロスチャイルド銀行 (Rothschild Bank of London)
・ハンブルグ・ヴァールブルク銀行 (Warburg Bank of Hamburg)
・ベルリン・ロスチャイルド銀行(Rothschild Bank of Berlin)
・ニューヨーク・リーマンブラザーズ(Lehman Brothers of New York)
・パリ・ラザードブラザーズ(Lazard Brothers of Paris)
・ニューヨーク・クーンローブ銀行(Kuhn Loeb Bank of New York)
・イタリア・イスラエル・モーゼスセイフ銀行(Israel Moses Seif Banks of Italy)
・ニューヨーク・ゴールドマン・サックス銀行(Goldman, Sachs of New York)
・アムステルダム・ヴァールブルク銀行(Warburg Bank of Amsterdam)
・ニューヨーク・チェースマンハッタン銀行(Chase Manhattan Bank of New York)

このリストは、主に連邦準備制度の設立に関わった人物、連邦準備制度の政策が利益をもたらす傾向がある人物、連邦準備制度の理事会の所属によって作られた。

そして、1914年には連邦準備制度が立ち上がり、第一次世界大戦が始まったばかりだったのです。この戦争で、ドイツのロスチャイルドはドイツ人に、イギリスのロスチャイルドはイギリス人に、フランスのロスチャイルドはフランス人にお金を貸したのです(#)。控えめに言ってもなんとも興味深い。戦争ほど経済を活性化させるものはないので、おそらく素晴らしいビジネスモデルなのだろう。

つい、話がそれた。

連邦準備制度法案が可決された1年後、チャールズ・A・リンドバーグ・シニア下院議員は、連邦準備制度がいかに「景気循環」を生み出し、それをいかに彼らに有利になるように操作しているかを概説した。

「物価高を引き起こすために、連邦準備制度理事会がすることは、再割引率を下げることだ…。信用の拡大と株式市場の上昇を生み出し…、ビジネスマンがこれらの状況に適応したときに、わざと金利を上げることによって、中堅の台頭を抑制できるのだ…。

それは、割引率のわずかな変化によって、上昇と下降する市場の振り子を前後に穏やかに揺らすこともできるし、より大きな金利変動によって激しい変動を引き起こすこともできる。どちらの場合でも、金融状況に関する内部情報を持ち、上昇または下降のどちらかの変化が来ることを前もって知っていることになる。これは、かつて存在したどの政府によりも、特別な特権階級の手に置かれた最も強力で危険な強みである。

このシステムは私的なもので、他人のお金を使うことで最大限の利益を得ることだけを目的に実施されている。彼らは、自分たちに有利なパニックを起こすタイミングをあらかじめ知っている。また、いつパニックを止めるかも知っている。金融を支配しているときは、インフレもデフレも彼らにとっては同じようにうまく機能する」

1916年までに、ウィルソン大統領は、連邦準備制度をアメリカ国民に解き放つことによって、自分がアメリカに与えた損害の重大さに気づき始めていた。

「我々は、文明世界で最悪の支配を受け、最も完全にコントロールされた政府のひとつとなった。もはや自由な意見の政府ではなく、多数決による政府でもなく…、少数の支配者の意見と脅迫による政府なのである。

アメリカの商業と製造の分野の大物たちの中には、何かを恐れている者がいる。彼らは、非常に組織化され、非常に巧妙で、非常に注意深く、見事に連動し、全く隙がなく、とても広範な力がどこかにあることを知っているので、それを非難するときは、息を吐くように話さないほうがいい」(#

ウッドロウ・ウィルソンは死の直前、連邦準備制度への自身の支持に関連して、次のような発言をすることになる。

「私は最も不幸な男だ。私は知らず知らずのうちに自分の国を破滅させてしまった。大工業国は信用システムによって支配されている。我が国の信用制度は確たるものになっている。したがって国家の成長も、我々の活動も、すべて少数の人間の手に委ねられているのだ」(#

なかなか鋭い指摘だ、ウディ。


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