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ブランコ

幼稚園の頃、ブランコから落ちたことがある。
家の近くの公園で幼馴染のマンチョと二人乗りをしていた。
私は座って、マンチョが向かい合う形で立ち漕ぎをして、ぐんぐんと高さを上げて前後に揺れるブランコがその高さの頂点に到達した時、なぜだかパッと手を放してしまった。
気が付いた時にはブランコの下に敷いてある、長方形のクッション材の上に横たわって、空の方を見ていた。
マンチョは焦って「大丈夫?」と繰り返し聞いていたが、私は返事をしていなかったように思う。どういう訳か、痛みも怖さも感じず、なんだなんだと集まってきた子供たちに囲まれて、とにかく早く家に帰らなくちゃと考えていた。

その頃、同じ公園で遊んでいた姉は、私に声を掛けることなくダッシュで母を呼びに行っていた。
それを知らない私もむくっと起き上がり、家へと向かった。
公園の脇に、いつも通り野菜を売りに来ているトラックが停まっていて、夕飯を前にしたエプロン姿の主婦たちが野菜を物色している横をゆっくりと進んでいると、カゴに積まれたトマトや胡瓜、丸々とした白菜が米俵のように積まれている傍らで、自分の着ている白いリボンが描かれたトレーナーが真っ赤に染まっていることに気が付いた。西日がより一層、色を鮮やかに見せていて、エプロン姿の主婦が履いている、年季の入ったつっかけの色までもハッキリと思い出すことができる。あれは今で言えばモーブピンクだ。
すぐ先の角から、血相を変えた母がタオル片手に走って来た。身体を内側に傾けてコーナーを曲って来る母は、スローモーションの陸上選手のように見える。母の腕にしっかりと抱に止められ安心した私は、お母さんってすごいんだなぁと感心したまま、意識が遠のいていった。

気が付くと病院のベッドに居た。
病院を何軒か断られ、救急車でたらい回しにされて、やっと処置してもらうことが出来たようだった。
頭にすっぽりネットを被せられた私を、母は「メロンちゃんみたいだね」と少しだけ笑った。
どうやって家に帰ったのかは覚えてないけれど、とうに日が暮れた見知らぬ街で、母は何度も私を抱き上げては「良かった」と抱きしめてくれた。
「頭が切れて良かったです。あの出血量で切れてくれなかったら危なかったですから」という医者の言葉は母をゾっとさせたらしい。

姉が母を呼びに行ったことなど知らなかった私は、母親というものは普段どんなに忙しくても、余裕が無くても、ピンチの時にはわかって駆けつけることが出来るんだ、すごいなと誇らしく思っていた。
それはどの家の母親もそうで、母親という存在はヒーローと一緒なんだという解釈だった。
姉があの時のことを「私が急いで呼びに行ったのだ」と自分の手柄を声高に話し、ワイドショーで何度か虐待のニュースなどを目にし、母親イコールヒーローなわけでは無いのだな、と知るのはもう少し後の話である。

これは余談だが、ブランコから落ちて家に帰らなくてはと思った感情は、恐らく混乱と羞恥心だ。私は高校の時にトラックに轢かれた時にも家に帰って来てしまい、どうしてそのまま倒れておかなかったのかとすごく怒られた。救急車の中でも怒られ、検査が終わって事故現場にパトカーで向かって怒られ、入院中も手術の後もずっとそのことを咎められた。
はじめて猫が死に際に姿を消すという話を聞いた時、私は猫の気持ちがとてもよくわかるなと思った。
人の見ている前でなんか逝けません、という思いが私にもある。
ただ、事故の時は姿を消してはならないらしい。所詮、人は猫にはなれないのだ。

母は今も時折、野菜を買っていた主婦たちに対して「こんなに血だらけの子供に誰も気付かなかったなんて不思議で仕方ない。ママならすぐに気が付いて抱いて走ったわ」とヒーローめいたことを言う。


明日は黒い服を着よう🐈‍⬛



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