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「1640日の家族」の映画の感想シェア会をして私の気づき。

8月20日に映画の感想シェア会をした。
参加者は里親、養子縁組里親界隈の人や研究者、この映画が好きだから、など15人弱。

その中で私が思ったことを気づきとして書いておきたい。
(ネタバレあり)


1.副題の「愛しすぎないで」に引っ張られすぎていたが、本当は
「愛しなさい。でも愛しすぎないで。」とソーシャルワーカーは話していた。


愛しすぎないで、の言葉の響きは重い。

正直、私が保護された子どもだったら
「あんたたち大人は、子どもを愛すために里親家庭やってるんじゃないんかよ?愛さないで、とか言うならやらないでよ」と怒りでいっぱいだと思う。

でもそれは「一生涯の父親母親である」と別の立場で関わっていることを忘れないで、という意味だと思った。

ずっと関わってきたらいつか自分が”里親”であることのバウンダリーを超えて、子どもたちに関わっていけたら、という気持ちが湧く瞬間はあるだろう。



2.「子どもが幸せになっていたらそれでいい」の重さ。


里親さんは、措置解除(里親家庭から子どもが委託されることが終わること)後に、子どもと公式に連絡を取れることはめったに無い。

でも、映画の中で
「自分たちが関わった子どもが、家族と幸せにやっている場面をたまたま見れた」里母は笑顔を見せるシーンが有る、ようだった。(だいぶ前に1度しか見てないので再度ここは見返したい!!)


「大丈夫、子どもは幸せになっているよ」

その事実が分かればどれだけ里親は、親は、安心して死ねるかなと思う。(いや、まだ死ぬシーンじゃないんだけどね。子どもとの関わりほど短期間で結果がわからないものってないし、数値化できないから難しいなと思う。適切に第三者や専門職が入り、子どもの様子をフィードバックする必要性はあるよねと思った。)


3.里親としての愛と、実親の愛は、奪い合うものではないから対立しない。


愛しすぎないで、と重なるが、

そこに里親の愛をあげすぎてても、実親の愛を奪うものではない。

短期間でも愛着形成をしっかり行えたほうが、次の場所(実家庭に帰った場合も含め)誰かを信頼できると言われている。(研究今度貼ります)

ゆえに、里親家庭にいる間、誰になんと言われようともたっぷり愛したらいいよね、と思うのが私の個人的な感想だった。

(ただし、愛するって定義はもっと議論したいところではある。)


もう一度映画を見て里母の表情や眼差しを見たい。


素敵な作品をありがとうございました。ご参加いただきました皆様ありがとうございました!(第2回目もしたいなぁ)


いつも応援ありがとうございます。サポートいただけたお金は、当事者の子どもたちとのご飯代金か、直接子どもたちに手に渡る寄付に回したいと思います。