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夫に意見することは「日本社会全体に物申す」ことだった。Kさんが夫を変えることができた理由とは?

「私がこんなに苦しんでいるのに、アンタは私を無視するの?」

「こんな家はもう無理!頼むから私と別れて!私をこの家から追い出して、お義父さんお義母さんが気に入るような女性を見つけて再婚して!私を自由にして欲しい!」

Kさんの突然の言葉に夫は言葉を失い、ただただKさんを見つめていた。どうすればいいか分からないという表情からは、夫が両親と嫁の板挟みになっていることがうかがい知れた。

結婚後、夫の家に嫁いだKさんは大きな不満を抱えていた。

支配的で干渉的な義両親、そしてそんな不都合な事実に目を向けようとせず、義両親との間で起きた問題をすべて「妻の至らなさ」のせいにする夫。

Kさんにはどこにも逃げ場がなく、本気で離婚か自殺かと思い悩んでいた。

そして、この現状を変えるため、Kさんは夫との話し合いを始めたのですが、それは「話し合い」なんて生やさしいものではなく、何千年も続く日本社会全体への戦いでもあったのです。

戦いの末、今では、Kさんご夫婦はすっかり仲良しご夫婦になり、お休みの日にはお二人で美味しいパフェを求めて喫茶店巡りをしたり、近くの観光地巡りなどをされる関係になりました。

なぜ、Kさんはこれほどまでに夫を変えることができたのか?

そして、夫を変えることが、なぜ「日本社会に戦いを挑む」ことになるのか?

Kさんのお話をもとに紐解いていきたいと思います。

夫に変わって欲しくて困っている女性の参考になれば幸いです。


私たち夫婦は、社会や親から昔の古い価値観を刷り込まれてきた

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ーKさんが夫の実家に嫁いだのは1990年代、男女雇用機会均等法が施行されて数年が経っていましたが、まだまだ性差別や家父長制の影響が色濃く残る時代でした。

私は結婚したと同時に、夫の実家に入り、夫の両親と同居したのですが、当時はまだバブルの煽りや終身雇用制度が残っていたので、 「結婚して一人前」「結婚したら女性は家庭に入って主婦をするもの」「男性が大黒柱になる」「子育ては女性がするもの」という価値観が根強くありました。

私の実家の母も「結婚したら、舅姑さんがいる家に入り、そこで苦労することが大事」という家父長制の価値観でガチガチでしたし、私も「結婚したら同居する」ものだと思い込まされていました。

また、夫も「跡取り長男は家にいるもの(=別居なんてとんでもない)」という価値観の親に育てられてきたので、私たちが結婚したら、「当然のこととして、自分の親と一緒に暮らす」ものだと頭から普通に思ってきたんですよね。

要は、私たち夫婦は、社会や親から「昔の古い価値観を刷り込まれてきた」ということです。

多分、これは、私たちだけでなく、昭和時代に生まれ育った人たち、当時の価値観を空気を吸い込むように腹いっぱい吸収して生きてきた人たちは、みんな多かれ少なかれ、家族観や夫婦観に、こうした「社会からの刷り込み」がものすごく浸透していると思います。

だから、私が嫁ぎ先の家族と一緒に暮らしていく中で、ふと感じたことや思ったことを人に話すのに、最初の頃はものすごい抵抗感がありました。

夫に対しても同じで、その抵抗感の一番の理由は、

「女は嫁ぎ先のことを悪く言ってはいけない。不満があっても、それは嫁のワガママなんだから、不満を感じている暇があったら、早く嫁ぎ先のしきたりに馴染むよう努力しなさい」

…という、昔の「女大学」みたいな古い価値観の刷り込みがあったからなんです。

(昭和時代は特に)女の子は幼い頃から「女の子なんだから」という理由で、目上の人を敬い、男性をサポートする役割をずっと担わされてきました。

学校でも、平成初期にジェンダーフリーが言われて平等化するまでは、「男子がリーダー、女子は補佐役」という教育が普通になされていたんですよね。

女子を男子の補佐役に躾けていく過程で、「自ら補佐役を買って出るような人物になる」のが美徳だと刷り込まれるし、リーダー性を発揮すると「女なのに」と足を引っ張られます。

とにかく、男より前に出たがったり、男より上に立ちたがるような気質だと、結婚してから苦労する…と信じられてきたので、幼い頃から女子が男子より抜きん出ないように、いろいろ押さえつけられてきました。

結果、学歴も「女の方が高すぎると嫁の貰い手がない」と言われて、大学進学をあきらめさせられたり、仕事で経済力をつけると「家庭をないがしろにしている」と責められるし

一方で、社会からは「女である」というだけで、半人前扱いをされて、自分の意見や主張には価値がないように扱われたり、軽んじられたり…等々。

自我が目覚めた女性には、本当に生きにくい時代であり、社会でした。

女性は自分が感じたことを口に出すことに、深い罪悪感を感じてしまう

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ーKさんは女性にとって生きにくい時代を振り返り、そこには男性と女性では社会で求められる姿勢がまったく異なっていたとおっしゃいます。

そして、こういう社会背景があるから、女性が「女子」というだけで不公平な扱いをされても、それにいちいち目くじらを立てると「大人げない」と言われて嫌な顔をされるので、どんなに辛くても、笑って受け入れたふりをするか、上手に受け流して我慢するかない。

昔は、そんな理不尽な対応策しか許されなかったんです。

ですので、女性の優しい笑顔の裏には、「本当は嫌でたまらないけど、それを口に出してはいけない」という刷り込みがあるために、ロボットみたいに無理に笑顔をつくっている…というケースもあります。だから、笑顔や優しい言葉の奥にある「本当の気持ち」に気づくことが、とても大事だと思います。

こんな状況の中で生まれ育ってきたので、自然と「自分の存在価値」も低くなるため、女性は自分の夫に対しても、なかなか自分の意見が言えません。自分が感じたことを口に出して言うことに、深い罪悪感を感じてしまうのです。

夫のダメさや未熟さについて、妻が不快に感じたり嫌だと思っても、夫のダメさを(女性は)母性をもってまるごと受け入れることが美徳だ…と刷り込まれているので、すごく嫌だと感じても、ぐっとこらえてしまうのです。

それに、周囲の人々や社会は「妻は、男のワガママを笑顔で許して受け入れてあげるもの」だと強く要求してくるから、それでも言おうとすると、自分の周りの人たちを全員敵に回すようなものなんですよね(汗)。

これはかなりエネルギーが要るし、社会があたまから「女性が受け入れるもの」という価値観なので、簡単にはひっくり返せません。

また、自分の意見を主張するのは「ダメな嫁」のレッテルを貼られるような感じがして、すごく怖いです。

更に、男性の未熟さや幼稚さについて、(特に昔は)社会全体がすごくゆるくて、みんな男性に対しては甘く見るところがありましたよね。

放蕩を尽くしても、「男の甲斐性」なんて言われて、男だというだけで何でも不思議と許される…という価値観。

でもその一方で、男性はどんなに許されても、女性に対しては絶対に許されません。

女性は結婚して家族を精神面で包み込んで支える存在になることを求められ、そのため、男性より心が成熟して大人であることをすごく要求されてきたのです。

特に家庭の場合、男性がダメでも、女性がしっかりしていれば、それでなんとかうまく回っていくこともあり、それで昔は、良い女性・良い嫁・良い妻、良い母親…を、世間は求めていたと思うのです。(かつては男性主導型の社会だったから余計にそうですよね…)

それが社会全体に蔓延していて、家庭の中でも同様に「女性にだけ大人の対応を求める」という空気があって、それで、なかなか女性側からは「反旗を翻すこと」は言いにくい…という事実がありました。

こうした背景があるので、妻が夫に意見を言うことは、実は相手は「夫」一人ではなく、「ウン千年続いた日本の社会のシステム全体に物申す」的な感じなのです。

つまり、「日本の社会全体に戦いを挑む」…ような感じなんですよね。

夫と自由に語り合える存在になるには、「夫に刷り込まれた男社会の価値観の洗脳を解く」必要があった

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ー1990年代、妻が夫に意見を言うことは単なる夫婦の会話なんて気軽なものではなく、「日本という社会システムへの反抗」であったとKさんはおっしゃいます。こういった文化規範の中で、Kさんは夫との関係性を変えようともがいていきます。

夫に意見を言った時、初期の頃、よく夫からこう言われました。

「こうしてお前の話を黙って聞いているのは、俺くらい。他のみんなは、そんな自分の妻の話なんて聞かないし、休日、夫婦で仲良く出かける者なんていないよ。でも俺はお前に合わせて、休日は一緒におでかけしてやっているんだよ」

要は、「男は普通、ここまでしないのに、俺は心が広い男だから、ここまで譲渡して、いろいろやってあげているんだよ」ってことです。

そして「男社会では、女の話を黙って聞いたり、いつも一緒に行動する夫婦は異端なんだよ」…ってことなんだと思います。

今はそんなことは一切ありませんが、以前はこんな感じでした。

おそらく、当時、夫の周囲にいた友人知人(男性)たちが全員この価値観でガチガチだったので、それで影響を受けて染まってしまい、こんなことを平気で言っていたのだと思います。

振り返ると、舅も、姑の話を聞き流して無視していたり、心の奥で姑のことを見下していて、決して仲のいい夫婦ではなかったので、夫はそんな両親の姿を幼い頃からずっと見てて、そこからも「夫婦ってこういうもんだ」と学習しちゃったんでしょうね。

だから、そんな夫と向き合うことは、「夫個人を何とかする」レベルの話じゃなく、「夫を取り巻く世界全般に戦いを挑む」ようなものでした。

つまり、夫と自由に語り合える存在になるには、「夫に刷り込まれた男社会の価値観の洗脳を解く」ということなんです。

もう、壮大な戦いの序幕でした。

女の私も、上記の通り、骨の芯まで刷り込まれている「こうあるべき」があるのですが、そんな女の私と同様に、男の夫にもまた「女と対等になるのは男の恥」みたいな変な価値観がかなり刷り込まれている…ってことなんですよね。

夫が、「男らしくしなきゃいけない」と虚勢をはっていたり、男の理論で「女の話には価値がない、聞くのも面倒」という態度をとっているのは、単に刷り込みが発動していて、自分の本当の気持ちとは別に、勝手にそういう風に動いているからだと思ったのです。

だから私が感じたことは、

夫の本当の気持ちは何?

夫の本当の気持ちを知りたい!

でした。

私は、「刷り込み」の鎧(よろい)の奥にある、本当の夫の姿を見たい…と思いました。もうずっと昔に、夫が自分の奥深くに閉じ込めてしまった「本当の自分」、そして、夫の心の底の方に沈んでしまっている「本当の気持ち」、それらに触れて、本当の夫に会いたい、夫の魂と話がしたい、彼の気持ちを知りたい…と思いました。

きっと夫自身も、自分の本当の気持ちや感性がわからなくなっているんだろうなぁ…と感じたんですよね。

「いい嫁」キャンペーンの終了

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ー夫の魂と話をするため、Kさんは思い切った行動を取ります。そして、その行動は、夫を、そしてKさん自身をも大きく変えていくのでした。

夫は、表面的に「世間でよくいう男の常識」みたいなことばかり言ってて、非常に模範的で素晴らしいんだけど、義両親との同居生活で大変な思いをしている私から見ると、全部きれいごとで理想ばかり語っていて、実体験と繋がっていなくて、話が上滑りしている…と感じられました。

当時、家庭内はかなりゴタゴタしていたのに(義両親が支配的で過干渉でした)、そうした現実には蓋をして見ようとせず、こじれて面倒臭く感じることは、全部「妻の至らなさ」のせいにして私に押し付けて、「問題なんて何もない」にしていました。

まさに、女性の苦労の上であぐらをかいている社会全体の縮図みたいなものです。

私も、逃げ場がなく、毎日が苦しくて、離婚か自殺か…というところまで精神的に追い詰められてしたので、ギリギリのところで離婚覚悟で夫にアタックすることにしました。

最初はブチ切れです。

吉本新喜劇のやすえ姉さんみたいに啖呵を切ってボロボロに言いまくりました。離婚する前提で話しているので、向こうもビビッてしまって、もう逃げることなく正面から私の話を受け入れざるを得なかったようです。

ブチ切れて真剣に怒らないと効かないだろうな…と思ったし、この時点で「いい嫁」キャンペーンは終了となりました。

「私がこんなに苦しんでいるのに、アンタは私を無視するの?」

「こんな家はもう無理!頼むから私と別れて!私をこの家から追い出して、お義父さんお義母さんが気に入るような女性を見つけて再婚して!私を自由にして欲しい!」

と本音を散々吐きまくりました。

そこから、夫に「自分の気持ちを正直に話していく」ことを始めたんです。

この時は、死ぬ前に、死んだつもりで最後のあがきをしてみよう…という気分でした。

もしも離婚したら、この家の人たちとは赤の他人になって解放されるけど、その前に、まだできることがあるなら、ちょっと頑張ってみよう…という思いでした。

夫を変えるより「自分」を変えたい

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ー夫の「刷り込み」という鎧の奥にある本当の姿に出会いたい。そう思い行動を始めたKさんでしたが、実は「夫を変える」よりも強い思いが別にあったと言います。

こうして、自分のホンネや感じたこと少しずつ話すようになりましたが、当時は「夫を変える」というより「自分を変えたい」という思いの方がすごく強かったですね。

実は、思ったことや感じたことを「言葉」に表して相手に分かりやすく伝えるのって、結構難しいことなんです。

特に昭和世代は、国語でも音声言語の領域をしっかり学んでいません。国語科でコミュニケーション能力の育成が始まったのは平成からなんです。だから、多くの中高年は、みんな基本的に「会話」が下手くそです。私もそうです。

国語科には「話す・読む・聞く・書く」という4つの領域と、「言語事項」というものがありますが、コミュニケーション能力の育成は「話す・聞く」にあたります。

ですが、実際は高校入試ではコミュニケーション能力は問われないため、教師によっては「話す・聞く」の領域を軽視する人もいて、平成に入っても満足に教えられていない人もいるかもしれません。(Kさんは大学で教育課程を学び教員免許状を取得している)

そういう事情もあって、昭和世代のみなさんは「話す・聞く」が下手だから、うまく感情が言葉に変換できなくて、ちゃんと伝えられずストレスがたまり、ふとしたことで感情的になったり、逆に面倒なことに絡まれたくなくて無視して無言になったり…。

みんな、コミュニケーションに自信がないから、人とちゃんと関わり合えないんです。

ただでさえ、そんな人たちが「感情的にならず、落ち着いて、建設的かつ客観的に自分の気持ちを分析して説明する」…をしようと思うと、今の若い世代よりもウンと難易度が高くて大変です。

だから、当時の私は、自分の表現力(とっさの時に自分の気持ちや意見がその場でサッと言えるようになるため)を磨くつもりで、夫に対して感じたことをその場でサッと伝えることを心掛けました。

要は、夫を相手に「自分の気持ちを正直に伝える」ための訓練(練習)をしてきた…と言う感じです。

ちなみに、夫も、私が毎回全力でぶつかってくるから、すごく大変だったろうなぁ…と思います。

でも、私は常々「私が気に入らないのなら、正直に言ってほしい。その時は離婚して家を出るから」と言っていたので、もしも嫌なら、ちゃんと申し出てくれていたと思うんですよね。(夫の幸せを願うからこその、これも本音です)

でも、今のところ、それは一回も無かったので、私と一緒に暮らすのは嫌ではないんだなぁ、それなりに楽しく感じているんだなぁ…と思っています。

結婚生活は「愛」じゃなくて「信頼」と「実務」がメイン

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ー結婚生活は「愛」だけでは回らない。大事なことは「信頼」と「実務」だとKさんはおっしゃいます。夫とその背景にある日本社会と格闘する中で、Kさんが実感された家族運営のためのコツとは?

そして、夫に対して「こうしてほしい」「ああしてほしい」という意見(要望)は、不満をぶつけるのではなく、【交渉する】という感覚でやっていました。

これは家庭観にも繋がることですが、私は結婚生活は「愛」じゃなくて「信頼」と「実務」がメインだと思うんですよね。

一緒に暮らすわけですから、結婚相手との暮らしは、性愛や情愛だけでは成り立たないだろうと思います。

経済的なことや家事労働、育児など、家庭を回していくためには、愛以上に「信頼」と「実務(=家事や育児など家庭内での作業や役割の分担)」が大事だと思います。

単に「愛」を基準にして夫婦関係を見ていくと、途中で絶対に苦しくなります。

「愛を育む」ことも大事ですが、長い同居生活を通して「信頼関係」を構築し、「家を維持していくためのスキル」を磨いて高めていくことが、男女共に大切だと思うのです。

ちなみに、 二人以上の人間が一緒に暮らすということは、それで一つの組織です。組織の運営には、チームワークや調整力も必要であり、家庭も然りです。

そう考えると「家庭」「家族」も組織だから、お互いに「心地よく生活を回していくため」のルールが必要です。

年寄りであっても一緒に暮らすのならルールを守ってもらわなくてはいけないし、また、子供が生まれれば、子供にもそのルールのメンバーになってもらわなくてはいけません。

だから、生活していて、不具合や困ったことが起きたら、ちゃんとパートナーに状況を説明して、ルールを改定したり、新しいルールを作ったり、不要なルールの破棄したり…ということが必要です。それを民主的に行うことが大切なんですよね。

だから、困ったことや変えてほしいことは、夫に説明して交渉し、お互いにちょうどいい塩梅を見つけて決着をつける…ということをやってきました。

もちろん息子にも、ちょっとここは直してほしいなぁと感じる部分を見つけたら、ちゃんと説明して改善していくように交渉しました。

姑については、私から意見を言う時もありますが、なるべく夫から姑にきちんと話してもらうようにしています。ここは、姑と実の親子関係である「夫」を立てて、そうしています。

こんな感じで、家族であっても、感情や義理で相手を支配するんじゃなくて、相手の存在を尊重し、ちゃんと交渉して話し合って決めています。

世間一般の常識論が聞きたいんじゃなくて、あなたはこれについてどう感じたのか?あなたの素直な感想が聞きたいの

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ーKさんが夫との話し合いで大切にしてきたこと、それは「相手の正直な気持ちを聞くこと」だったと言います。ですが、夫から正直な気持ちを聞き出すことは簡単ではありませんでした。

こうした話し合いのときに、私たちが大事にしてきたことは、「あなたはこの件についてどう思う?」と、相手の正直な気持ちを聞くことでした。

特に男性は、昔から「おしゃべりはダメ。寡黙な方がいい」という謎の男ルールで、おしゃべりが下手な人が多いですよね。

自分のことを全く喋れなくても、男というだけで「寡黙でまじめな人」という良い見方を社会からしてもらえてきたから、「自分のことを語る」ための努力をしなくてもスーと生きてこれた人が多いんです。

だから、余計に「自分のことが分からない」という人が目立つんだと思います。

この男性の特徴については、以前、私は夫に正直に伝えたことがあります。

「あなたはいつもムッツリしていて、何を考えているかサッパリ分からない」

「本当はどう感じているの?」

「これを見て、わぁ~とか何か感じないの?どう思うの?」

とはっきり言ってきました。

最初はムッとしていたけど、分かりやすくたとえ話を入れて説明して、「これが逆の立場だったら、あなたも嫌でしょう?」と疑似体験してもらって、どっちが心地よいか?どんな感じがした?と、夫の感想を聞いたりしてきました。

すると夫もだんだんと「自分は感じたことを、とっさに表に出せない」ということに気づいたみたいで、そういう自分を変えたいと決意してくれて、少しずつ「自分が感じたこと」を表現するようになりました。

夫曰く、男同士の付き合いだと、感じたことを言葉でパッと口に出すことはないそうですね。

子供時代から豊かな感性を持っていても、それをポロリと外で出すと、周囲から「男のくせに」とからかわれたり、親や大人から「男なのにみっともない」と叱られたり、または「それは違う、正解はこっちだ」と自分の感性を頭ごなしにダメ出しされて矯正させられることも多々あったようで、それで、だんだん自分の感覚を鈍らせ、周囲に合わせて物言わなくなるんだ…とのこと。

「自分を語る」=「自分の本当の気持ちを正直に話す」

男性は、これに努力して取り組むことで、ずいぶん人生が豊かになり楽しくなるんじゃないかな…と思いました。

あと、夫が「でも、世間では…」と社会の常識論&世間一般論を持ち出して、上から目線の言い方をしてきた時は、私はその場で、「世間一般の常識論が聞きたいんじゃなくて、あなたはこれについてどう感じたのか?あなたの素直な感想が聞きたいの」と伝えました。

すると「うぐぐ」と口ごもっちゃうんですよね。いかに男性が、社会の常識や一般論を「自分の意見」として脳に刷り込んじゃってきたのか…。すごくわかる瞬間でした。

人が「それはおかしい!間違っている!」と言うから、自分も「それはおかしい。間違っている」という意見になる。こんな感じなのです。でも、こっちの方が明らかにおかしいことですよね。

世間の60代のおじさん達が「カフェに行ってパフェを食べるなんて、女がすることだ。良い歳をした男が、そんなことをしたらみっともない。人が知ったら笑われる。こんな変なことは俺たちは絶対にしないぞ」と言っていても、

夫が「あのカフェ、すごく素敵!」「このパフェ、美味しそう~食べてみたい~!」と感じたのなら、自分の気持ちを素直に認めて受容して、実際に素敵なカフェに入って、食べたいパフェを食べたらいいんですよ。

人に笑われるとか、みっともないとか、恥ずかしい…と言って「世間体」を理由に自分にブロックをかけるのではなく、素直に自分がしたいことをどんどん実践していけば良いんです。

…と、そんなことも、よく夫に懇々と話してきました。

そして、夫が「これが欲しい」「これをしたい」と感じたら、その気持ちを拒否したり、否定したりせず、ちゃんと素直に受け止めて、自分のために行動し、自分の思いを叶えていくことをすすめました。

お陰様で、夫は自分の感性を許せるようになり、わたしに思うことや感じたことを正直に話してくれるようになり、私も夫の「感じたこと」を後押しし、お互いにとても自然な関係になってきました。

そして、夫もすごく人生が楽しくなってきたみたいで、自分に強いていた我慢を手放し、自分に楽しみや喜びを与えられるようになりました。

心身ともに明るく自由になってきたようです。

男も女も関係なく、一人の人間として真摯に向き合うということ

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ー「刷り込み」から解放されたKさんご夫婦にある変化が訪れます。それは、男も女も関係なく、人と人が向き合うためにとても大切なものでした。

こうして私が夫に意見を言い続けていくことで、夫の中にある「刷り込み」が打破されていき、夫も「自分の本心」を素直に表現するようになりましたが、その一方で、私自身も、私の中にもある「女はこうあるべきの刷り込み」を打破することができたなぁ…と思います。

今振り返ってみると、以前のような「刷り込み」が強かったころは、「男」「女」で隔てた世界を生きていたように感じます。

でも、今、刷り込みを打破して「本当の自分」を取り戻すことをしていくうちに、男も女も関係なく「一人の人間」として相手と真摯に向き合い、相手と誠実につきあうような意識へと変化していきました。

私も夫も、年齢や性別にこだわらなくなったし、人を見て態度を変えることはなくなりました。

私自身、相手が夫であろうと誰であろうと、もう怖さや罪悪感はなく、正直に自分の気持ちを素直に伝えられるようになったと感じます。

そして夫も、私と話すことはすごく楽しいそうで、私の話に価値を見出してくれて、いろんなことを自由に話しています。

心から会話が楽しめる=平等な立場で相手の存在価値を素直に認めている

…ってことなのかもしれません。

相手が誰であろうと、ちゃんと話を聞いて、感じたことを正直に伝える。

そんな誠実さを、自分の家族も含めて、社会の人々みんなに対して、自由に気楽に発揮できることになること。これが「刷り込み」の洗脳を解いて、自分の気持ちを知り、自分らしく自由に生きられるようになることへ繋がっていくのだと思います。

こんな感じで、私たちは「正直なコミュニケーション」ができる関係へと進化していきました。

今回、Kさんのお話を伺うことで、ぼくは「妻との関係」や「夫との関係」に向き合うということは、自分自身や相手の文化規範と向き合うことなのだということを学ばせていただきました。

お互いへの不満を口にするだけではなく、「なぜその人がそのような行動を取るのか?」その根本的な原因を探るために、相手の文化規範を理解し、相手の文脈の中でその人を理解しようとする。

その地道な行動の先に、Kさんがおっしゃる「正直なコミュニケーション」ができる関係があるのだと思います。

夫婦関係に悩む方の参考になれば幸いです。

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