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ヘウゲモノ

古田織部という人物はどのくらいの知名度があるのだろう。
本名は古田重然しげなり
豊臣秀吉、徳川家康の茶頭、茶道の織部流の始祖であり、利休七哲のひとりに数えられる。
もともと美濃の守護土岐氏に使え、秀吉に仕えた時に従五位となる。
関ヶ原では東軍に与したのちに10,000石の大名となっているが、豊臣恩顧の大名であるがゆえか、大阪城落城の際に内通の嫌疑をかけられる切腹を命ぜられる。

織部は、やはり大名というより茶人としてのほうが高名ではないか。
織部の茶の湯の弟子には錚々たる戦国武将の名が連なる。

織部焼の第一人者であった加藤唐九郎(この方、名古屋在住時のぼくの自宅の近くにお住まいだったようで、徒歩圏内に記念館があった)は、利休は自然の中に『美』を見出したが作り出してはない。織部はそこに見出して陶器を芸術に高めた」と言っている。

緑の釉薬が印象的だが、なにより「ヘウゲモノ」とといわれる歪みに美を見いだしているのが特徴である。
加藤唐九郎と同じく、織部焼で人間国宝の推挙まで受けたのが「北大路魯山人」がいる。
彼は辞退辞退しているが、そのためかまだ日の目を見ない作品も数多くあるという。

織部焼を含める「美濃焼」は「瀬戸焼」「有田焼」とともに日本三大陶磁器に数えられ、その中でも国内シェアの半数を占めるのが美濃焼である。
「民藝」などに代表されるように、日常のなかの芸術というものの一つには、この美濃焼ような普段使いの機能美と同次元にある様式美のようなものと理解している。
そういった意味では美濃焼はその頂点に近しいところにあるのではないかと考える。

こういった陶磁器の生産地を訪ねると、必ず若手作家の工房を見かける。
新しい切り口や手法、あるいはマーケティングでも新世界を拓いていくのは、必ずしもその世界で研鑽を重ねたものだけではないのだ。

(写真は瀬戸市、多治見市)

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