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ダメじゃなくて無理

数名の医師が私を取り囲んだ。
主治医の説明のたびに、彼らは代わる代わる私の「患部」を覗き込む。
診察台で仰向けになっている私からも、彼らの顔が見える。
「患部」と私を隔てるカーテンのような布はない。

珍しい症例だからここでは対応できないと言われて大学病院の婦人科の診察を受けるようになったのは、まだ20代の頃だ。
不妊治療を前提とする診察だった。

下着を外して専用の衣類に着替え、大きく開かれた脚の間を、医師たちが観察する。
すべて男性だった。
だから何というわけではない。
彼らは私という患者ではなくただ「患部」を診ているだけだ。

当然、内視鏡やモニターもあったと思うが、あの「実地研修(検証?)」はなんだったのか。
月に1度の診察に3回ほど通い、やめてしまった。
治療費が高額だった(夫は費用も出さなかった。つまり「私の落度」「私の欠陥」ということで)のもあるし、「そこまでしなくても」と思ってしまった。

それまで、争いを避けるため夫にも姑にも最大限に気を遣い、言うなりになってきた私の初めての抵抗だった。
勝手にやめたということで、ひどく怒られたけれど、頑として再開しなかった。
もう無理だった。

何が正しいか、どうすべきなどではない。
何が良くて何がダメかは関係ない。
「ダメ」じゃなくて「無理」なのだ。

NHKのドラマ「燕は戻ってこない」の第2回を見た。
そして、これがいいドラマかそうでないかという次元でなく、好きか嫌いかという単純な感覚さえ吹っ飛ばしてしまって、もう「無理」だと思った。

不妊に悩む妻の気持ちもわからぬわけではないし、貧困にあえぐヒロインにも共感する部分はある。
とりわけ、インフラも止められてしまうというお金のなさは、ほかのすべての思考を奪ってしまう。
「衣食住足りて礼節を知る」という言葉は私は嫌いだが、礼節どころの騒ぎではない。
しかし。
私は、代理母を頼む夫婦も請けるヒロインにも、どうしても感情移入できない。
かといって、まるで他人事のように展開を楽しむ自分でもありたくない。
生殖医療の賛否ではなく、私には無理。

たぶん。
嫌悪の根底に「命さえ金で買える」世の中というもの、それに容易に手を出せる金持ちへの反発があるのだと思う。
稲垣吾郎演じる夫が、代理母が見つかったという報告に喜び「こんなに簡単に手に入るならもっと早くに頼めば良かったね」というような内容を妻に告げるシーンがあるが、胸糞悪さがピークに達した。

一方で、私の感覚としては、代理母の報酬300万円は安いと思っている。
ヒロインにすれば、大金なのだが。
いや、私にとっても大金。
じゃあ、いくらならいいのかというと、そういう問題じゃないのはわかっている。

最後は何か救いのようなものがあるのだろうか。
物理的な決着ではなく、精神的に。
次回も毒と知りつつ舐めたくなるかもしれない。

いまのところ、登場人物の中で一番好きなのは、妻の友人で現代春画を描いている「りりこ」さん。
私が、この物語の誰かになれるなら、この人のようでいたい。


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