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なぜか読めない本がある


『星の王子様』が読めないという方がいて、気持ちが分かった。

その方には、表現がちょっと幼なすぎるのかもしれない。

わたしにも読めないっていう本がある。アホっぽくて体が拒否る。

今まで何度も考えてきたんですほろほろ。長いです。



1.謎の村上春樹


わたし、村上春樹の小説が読めない。と何度も書いてきた。

たとえば、『風の歌を聴け』。

上っ面で表面的な記述なのでイライラしてしまう。

死ぬ覚悟で我慢に我慢して50ページしか進めなかった。

ところが、彼のエッセイは読み易く論理的で大好き。

天下の村上さまなのです。じぶんだけ歯が立たないなんて悔しいっ。


『風の歌を聴け』のレビューをみると、わたしと同じような人がいた。

「大学の同級生に聞いてみた。そしたら、村上春樹が自分は好きかなと言っていた。

おすすめは?と聞くと、とりあえず風の歌を聴けでも読んでみたら?と言われたのがきっかけである。

正直読み終わってみてよくわからなかった。

何を言いたいのかいまいち掴めなかったと、薦めた友達に言ってみると、

それが正しい、確かに俺もよくわからなかったと言っていた。」


わたしは同僚に聞いて、同じような経験がある。このレビューワーは、その先が違った。

「しかし、心に響いた言葉が何箇所かあった。

ネズミが言った言葉に強い人間なんかいない強いふりをして生きているだけである、

人間なんかみんな同じさ、というセリフである。確かにそうだと思った。

自分より能力がある人に心配や不安がないわけがない。

村上春樹という作家は、こんな文章を書くんだと初めて知った。」


むむむむむ・・。別なレビューワーはもっと踏み込んでた。

「しばらく間をおいて、3回目の通読である。はじめて読んだ時は、斬新な感動であった。

年を経て読んでも、若い時代のほろ苦さ、二度と出会うことのない人達の思い出、喪失感と切なさ、これらを見事に描いていると思う。

文章は荒削りで完成されたものではないが、ハッとさせる村上ワールドは健在である。

完成度は高くなくとも、後の長編「ノルウェイの森」よりも遥かに心に響くものがある。

完成度は高くなくても見事な傑作である。」


傑作である??

よく聴け!と言われても、わたしには何も聞こえないのですほろほろ。

同じ人間なのに。。なんだか、悔しい!


もちろん、1行読んで諦めたというレビューワーもいた。ただ、ずいぶん時が経って再読したのだそうです。

「残念ながら、私の感性は、そう簡単には変わらなかったようで、

読み終えた感想は、やっぱりよく分からなかった、になります。

ですが、青春時代の終わりを知っている、一生再会できない人がいる事を知っている私には、懐かしさと爽やかさ、寂しさを感じる事が出来ました。

最近は、歳を重ねることに不安すら感じていましたが、

若い頃には分からなかった感覚に気付けるというのは、なんて楽しいことだろうと思いました。

久しぶりに読んだ本が、この作品で良かった。」


良かった。。

たいはんの村上ファンは、「よく分からなかったが自分は村上春樹が好きかな」とか言う。

考えでは無く、感じたことなので、言葉にうまく出来ないのでしょう。

でもなぁ、、ぜんぜん彼らが何いってるのか分からない。

笹だけ食べるコアラのようで、なにか腑に落ちない。

同じ人間のつもりなのにほろほろ。



2.感じる時


正直にいうと、何度も星の王子様を読んでいるけれど、

わたしはじぶんが疲れ果て、しよぼんとなった時に読んでいる。

生意気な左脳が元気に他者を裁いている間は、王子様には浸れない。

左脳は、検閲官、裁判官、教師、道徳、既定路線、みたいな感じ。

こうあるべきだ、こうすべきだ、ああだ、こうだ・・。

ズバリ言うと、うるさい、姑みたいだ。

で、左脳(論理、言語)が、ひたろうとする右脳(感性)を叱る。

こちらは嫁という立場で対等に話をしてはならない、みたいな圧迫が普段ある。

叱られた右脳は言葉を禁じられ、声高な左脳の膝下でむむむ・・って黙るしかない。


ほんとのことは、目には見えないと星の王子様はいった。

なのに、普段のわたしは、左脳ばかりでことを処理してる。気がする。

じんせい変わる程のガックリすることでも起こらないと、わたしは村上さまの小説は読めないん?



3.村上さまの夜明け


29歳でした。

彼はまだジャズ喫茶を営んでいて、店が終わった深夜に『風の歌を聴け』を書いた。

一通り書き上げたけど気に入らなかった。

で、英語に書き直し、それをもう一度日本語に翻訳し直して、自分のスタイルを納得した。

夜明け前の、彼が無心に書くシーンがわたしに浮かぶ。

わたしが驚くのは、彼は無名だったことです。

小説なんて一度も書いたこと無かった。なのに、彼は途方にくれなかった。


最近、神戸も散歩するので、きっと彼がここらへんを歩いてたんだろうなぁとか思って歩いてる。

当時、港に寄る船乗りたちが吐き出した本が安く売られていた。

神戸に住んでいた彼は、高校生の頃にはサリンジャーやフィッジェラルドを原書で読んでいたようです。

英語に堪能だったというより、彼らに魅了され次々と読んだのでしょう。

わたしには全然、華麗でないギャツビー。

絶対ライ麦畑で捕まえられないサリンジャーなのに、彼にはまったく違った。

その魅入られた作家たちのスタイルを頼りに、村上さまは書き進んで行った。


出版する気も無かったし、そんな目途もまったくなかったのです。

もちろん、受賞なんか狙ってない。

だから、こんなの誰も読まないかもしれないという恐怖も無いし、おれはやっぱり文才が無いんだという他者比較も無い。

きっと、己の感性だけを信じ、ずっとインプットされて来たモノたちをアウトプットすることだけに魅入られた。

他者の目を気にせずに書いていたということに、わたしは驚愕するのです。

今、これを書いているわたしは、世間の目を外せてない。


彼が、その後も自身との対話で書き続けたことは、エッセイを読めば分かります。

そんな人間をわたしは、身近には知らないのです。

いや、みんながみんな、人目ばかり気にして書いている。

でも、自身の感性や感覚を1stに信じ続ける者たちだけが、ずっと自分を鍛え続けられる。

もう他者に良いか悪いか、素敵かどうかを聞かないのです。

聞いてはだめなのです。信じる基盤が無いということですから。


やがて、変わり者の読者なりファンがついてくる。

”推し”する変わり者たちが増え、世間の目につくようになる。

当初、既存の作家や評論家はブウブウいう。バカにする。

けれど、やがてマジョリティを得て誰も否定できなくなる。有名になる。

という物語は、作家も作曲家も画家も、どの世界でもありふれている。

遊ぶ者だけが、先に進める。でもねぇ、、自分を信じて自由に遊ばせることはとても難しいのですよ。



4.じぶんという不安


単に村上さまの感性が読めないだけなのか?

ペパーミント味が好きか嫌いかみたいな好みの問題か?

わたしは何故かしつこくその原因を探りたがる。

わたしは長い間、詩という形式に近づけなかったのです。

きみはいったい何が言いたいん?とすぐに内なる声がしてしまう。

きっと、なぜ読めないのかには何か深いワケがあるのです。


たとえば、わたしは左脳命令に従い易い体質でしょう。

安心してそこに没入して良いか悪いかも左脳が判断している。

エッセイは論理的な構成なのでわたしは安心です。

だから、大好きなのです。

わたしは、きっと世界を理解可能なものだと確認したいのです。

左脳が采配し易い人は、分析や批判ばかりだけど、ほんとは不安を感じ易いのかもしれません。


こう書き込んだレビュワーがいました。

「ライトな文体で大いなる虚無を見事にものしている。

読後、世界の虚しさにとてつもなく切なくなる。」


とてつもなく切なくなる・・。これはわたしなら、最大級の誉め言葉になります。

分かる=秩序がある、とわたしは思うのか。

書き手も読み手も、感性を自由に開いている?

じぶんの不安の源泉が分からないと、ただ恐れるだけでいつまでも村上さまが読めない。


村上さまは、世間の目を気にせず自由に物語を紡いでみせたのでしょう。

見つめていたから、彼は書けたんだと思う。

彼が自分の信じることを祈りの様に仰ぎ見ていた気がする。

わたしはもう20年ほど、村上さまを考え続けている。

でも、ほんとは村上さまのことよりも、もっと何かに引っかかっているのです。

解釈ばかりしないで、虚しさや孤独を受け入れないとほんとの一歩が踏み出せないのかもしれない。

きっとじぶんを解き明かすカギが彼にある、とわたしは思ってるのですほろほろ。



P.S. 

パンダ謎の話。完全な蛇足です。へへ。


朝、食事しながら、かのじょが突然こんなことを聞いてきました。

「なぜ、パンダは笹しか食べないのかしら?」


いつも女子たちは突然問い掛けてくるのです。

人の目を気にしない。自由だ。

けど、わたしには何だか分からず、何かが悔しい。

本当にわたしに聞いてみたかったのかがいつも疑問だ。


「テレビで見たの。

誕生日のケーキに果物刺してあってね、パンダ、それを食べてたの。お肉も食べたのよ。

な~んだ、あなた、なんでも食べれるじゃんっ。

雑食の方がビタミンでもなんでも取り易いのにね。何で、笹なのかしら?」

まじめな、わたしだもの。必死に考えて答えようとした。


「ううーん・・たぶん、コアラだよ。

生存競争で食べ物に苦労したコアラと同じ、激烈なる過去があったんだ。

干ばつでね、食べ物がぜんぜん無くなったんだね。まったく無しに。

追い込まれたコアラは、誰も食べずに豊富にあったユーカリの葉を食べてみた。

ぱくっ。

ユーカリの葉には毒があるんだ。ああ、、でも、食べるしかなかったんだ。

やっぱり、多くの仲間が死んで行った。

でもね、中にたまたまユーカリの毒素を中和する酵素を持つ者がいてね、

以降、そのDNAだけが生き残って行ったのさ。」


「ふ~ん。。」

かのじょは、目の前のヨーグルトを食べ始める。ブドウも入ってる。ぱくっ。


「あいかわらず、弱っちいコアラは動物界の隅っこで、食べ物が無い状況が続いたんだ。

けど、豊富なユーカリはなんとか食べれるという世紀が何世代も続く。

結果、全コアラはその葉っぱしかたべなくなった。

コアラだって、果物も肉も食べれるけど、生き残った遺伝子が命令してくるのさ。

お前、ユーカリ食べないと死んじゃうぞーって。」


「ふ~ん。。」

干しブドウとリンゴ酢を食器に足した。ぱくっ。


「彼はノロイんじゃないんだよ。さっさと動けるんだ。見たこと、ある?

でも、今でも毒素を中和させるのに何時間もじっとしていないといけない。

今もってしても、解毒に一日の大半の時間を捧げてる。

きっと、パンダにもね、笹を食べねばという絶対命令が来てるんだ。」

てなことを言ってみた。ちゃんとお役目果たした。

かのじょは、ヨーグルトに全力集中していた。ぱくっ。ぱくっ。ぱくっ。

おいっ、興味、無かったんかい!


わたしが左脳優位なのも、先祖あるいは個人史に何かの必然があるのでしょう。

頑なに、ただ理屈っぽいわけじゃない。と思う。

偶然、村上さまのお話は読めませんほろほろ、みたいなことじゃないような気がする。

感性笹ではなく、論理笹を食べねば生き残れなかった過去なりがあったのかもよろよろ。



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