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盲目と彩り

 さやかの家に向かう途中、ひとりの不思議なオジサンを見つけた。
 そのオジサンは、さやかの家の近くの公園のベンチの横に立っていた。
 色鮮やかに、黄色に、紅色に輝くまわりの風景に溶け込まない不気味さを湛えていた。
 輪郭がぼやけているような、そんな感じがする。美しく輝く風景画に、一点だけ黒い墨を零してしまった。そんなようなたたずまいで私の視界を捉えていた。
 今日は久々にさやかに会おうと思って、こうして歩いていたのに、私の意識からさやかは薄れていった。
 薄れていったという感覚は誤りかもしれない。さやかへの想いに埋め尽くされていた私の脳内に、少しばかりの空間ができたのだ。

 オジサンはそこに入り込んできた。

 違和感しかなかった。その真っ黒にぼやけたオジサンは、私に違和感を覚えさせたのに、気付いたら私の中に流入してきた。

「おつかいかな、お嬢さん」

 じっと見ていたら、右側の耳元で男の人の声がした。視線は五〇メートル以上先のオジサンを捉えていたはずなのに、耳元で囁かれる声はあのオジサンのものだと確信した。
 あべこべな感覚に、違和感はもうなかった。
「いいえ。ちょっと友達の家に行かなければいけなくて。その娘に会うの久々なんです」
 思わず、“ヨソ行き”の話し方になってしまう。声も同様に。
「そうかい。お友達の家にねぇ。それは偉いねぇ」
 相変わらずオジサンは動かない。それなのに今度は左耳の近くで声が聞こえた。
「オジサマは、そんなところで何をなさっているのですか?」
 私は臆面もなくそう話しかけた。遠く五〇メートル先のオジサンに。
「待っていたのだよ」
「誰をですか?」
 オジサンは答えない。
 最近視力が落ちたのもあり、オジサンの姿をうまく捉えられない。詳細が読めない。

「暗いところで本ばっかり読んでいるからだよ」

 今度は頭の後ろ側から声がした。低く響くその声は、大きなスピーカーの前に居るような感覚だった。
 昔、お父さんの演奏を聴きに行ったことを思い出す。私はまだ幼かったけれど、大きな音に恐れることはなくて、むしろスピーカーの前に居座ってお母さんを困らせた。

「昔から自分に負荷をかけるのが好きなんだねぇ」

 私の思考に合わせて、オジサンは話題を変える。
「負荷……ですか?」
「そう、負荷。暗いところで本を読んだり、大音量のスピーカーの前に居座ったり」
 私はそれを負荷だとは感じていなかった。
 暗いところで本を読むのは、本が好きだからだ。でも、ずっと読んでいるとお母さんに怒られてしまう。昔からそうだった。だから、部屋の電気を消して、自分で買った枕元の間接照明を頼りに読書をする。
 大音量のスピーカーの前に居座っていたのは、どこか包まれる感覚がしたから。お父さんが弾くベースの音が鳴るたびに、身体全身が震えて、そして何かに包まれる感覚に陥ったのだ。幼い頃とはいえ、あの強烈な感情はいまだに私に根付いている。

「そうかい。それじゃあ、久しぶりの再会を邪魔するものでもないかねぇ」

 今更、驚くことでもない。私はこのオジサンに頭の中を読まれている。私の心中なんて、とうにお察しくださっていることだろう。

 風が強く吹く。
 目の前で銀杏の葉が渦を巻く。
 目の前が遮られる。

 しばらく待っていると、葉はどこかへ飛び散るわけでもなく、またしても公園の地面に積もった。
 渦のせいで視界を塞がれて、そして晴れたその空間には、オジサンが相変わらず同じような姿勢で立っていた。
 ただ、距離は近付いている。
 残り二〇メートルといったところだろうか。

「ありゃ、驚かないのかい」
 低く響いていたオジサンの声が、少しばかり上ずっている。
「まぁ、なんかこう知っている感じだったので」
「会ったことはないはずなんだがなぁ」
「だてに創作物を読んでいませんからね」
「事実は小説より奇なり、とも言うではないか」
「小説が事実より奇だったら、この世はお仕舞でしょう」
 途端、笑い声が響く。
「はっはっは!お嬢さん、愉快だねぇ」
「そうでしょうか」
 何も愉快なことを言った覚えは無いのだけれど。
「どれ、お嬢さんの小説より奇なりな事実をひとつ聞かせてはくれんか」
 声が、頭の中で響いた。もう耳元でも、頭の後ろ側でもなかった。直接頭の中で響いている感覚。


「あるところに、一人の女の子が居ました。
「その女の子は、少し舌足らずな喋り方をして、愛嬌があり、みんなに愛される女の子でした。
「親からも友人からも愛されて、女の子は高校生になりました。
「誰もが羨む女の子になった反面、羨みは嫉妬を呼びました。
「ある時。まさに今日のような秋の季節に、学年の王子様と呼ばれるような男の子が、その子に恋焦がれるようになりました。
「秋風薫る学校の裏庭で、王子様は女の子に愛の告白をしました。
「天真爛漫で、愛されているということに無自覚だった女の子は、目を見開いて驚き、そして小一時間ほど悩んだ挙句、王子様の申し出を断りました。
「『私、好きな人がいるの』と。
「そしてそれを見ていた、何も知らぬ嫉妬深いクラスの中心人物。
「その嫉妬深い女の子は、王子様に対して大層な恋慕を抱いていました。
「そこから繰り返される悪行の数々。
「天真爛漫な女の子は、
「トイレでドアの上から水をかぶせられ、
「上履きに画鋲を仕込まれ、
「机の上に花が置かれ、
「徐々に周りから人が消え、
「嫉妬深い女の子の友人に襲われ、
「そのことを隠し続けて生きて、
「それでもその事実はインターネットの闇の中でいやらしく輝き続け、
「両親は心配し、
「その心配は行き過ぎ、
「女の子を守るべき家族は行き違いで離散していきました。
「そして聞かされるのは両親の離婚。
「父親についていき、母親の死の報せを聞き、父親は精神が錯乱し、薬、酒に溺れ、しまいにはかつて愛した娘にすら暴力を働くようになりました。
「繰り返される暴力。
「かき回される感情。
「輪姦され、晒され、爛れゆく日常。
「そして、ある時、女の子は売られました。
「ヤのつく職業、それも日本人ではありません。
「聞きなれない言語で浴びせられる罵倒。
「嗅ぎなれない体臭。
「失っていく感覚。
「徐々に薄れていく意識。
「光を求めなくなった女の子は、視力を失いました。
「救われたときには、もう遅すぎました。
「何も見えなくなり、母親は死に、父親は塀の中。
「頼る先は、祖父母でした。
「母方の祖父母は、娘の離婚と共に父方の家と縁を切っていたので、女の子は父方の実家に預けられました。
「三つ子の魂百まで。
「血は水よりも濃い。
「救われた女の子は、またしても地獄へ逆戻りでした。
「『こんな孫娘がいるから息子はおかしくなったんだ』
「『お兄ちゃんも昔は優しかった。やっぱり私はあんな女との結婚は反対だったんだ。案の定こんな厄介の塊のような姪っ子まで押し付けられて』
「そして変わらない日常が繰り返されていきました。
「まだ、見知らぬ人間に犯されている方がマシだった、と女の子は考えました。
「血の繋がった伯母に苛められ、祖母には無視され、従兄に犯され、従妹に晒される。
「そんな日常が始まりました
「ある日。それもこんな日でした。秋風が強く吹き、樹々が美しく色づき、鼻につく銀杏の匂い。
「女の子は再度、救われました。
「救ったのは、かつて女の子に告白をした王子様でした。
「王子様はインターネットの海に漂う、かつて愛した女の子のあられもない姿を、目の端に捉えました。
「そして、その王子様の通報によって、女の子の祖父母の家は崩壊しました。
「土足で上がり込む国家権力を前に、祖父母の家はひれ伏しました。
「『これからは僕が守るよ』と、王子様は言いました。
「そこからも続く悲痛な日々。
「王子様は若気の至りで、女の子と共に生きることに決めました。
「学校を辞め、実家の反対も振り切って、女の子と一緒に住み始めました。
「女の子を救いたい一心で、王子様は悪事に手を染めるようになりました。
「道を外れていきました。
「日の下を歩けなくなりました。
「生傷が絶えない日々でした。
「家に帰って、盲目の愛する女の子に会えることを望んで必死に生きていました。
「ある日、王子様は上長から言い渡されました。
「競合相手の事務所を燃やしてこい、と。
「女の子の過去を知りながら、それでも極道の道を選んだ王子様にも決断が迫られる刻でした。
「王子様は実行に踏み切りました。
「返り討ちに逢い、無残にも王子様の命の灯は消えました。
「消える前に、王子様はある場所に連絡をしました。
「『さやかを、救ってあげてほしい。俺には無理だったけれど、助けられるのは、もう君しかいない』と。
「そして、その連絡を受けた私は、美しく彩られた秋の日に、そんな女の子の家に向かう途中、明らかに怪しい、明らかに妖しい、黒い影に話しかけられました」

 話し終えると同時に、今度は紅い葉が渦を巻いた。
 先ほどの黄葉と同じように、舞っては、同じところに沈んでいく。

 目と鼻の先に、黒い影のオジサンが居た。

「修羅の道だねぇ」
「修羅だと思うから、修羅になるんですよ」
 脳内に響き渡る笑い声は、徐々に遠のいていく。
 真っ黒なオジサマは目の前にいるのに、声が遠のいていく。

「面白い話を聞かせてもらった。そこまでの気迫があるのであれば、私は祈ることにしよう。お嬢さんが修羅の道を歩くように」

 頭の、それも随分高いところからふりかけられているように聞こえるその声は、変わらず低く響いた。
「望むところです」
 高らかな笑い声と共に、一段と強い風が吹いた。あまりにも強く吹くその風は、思わず私の瞼を閉ざした。
 再び瞼を開けると、もう黒い影は無くなっていた。
 目の前に広がるのは、相も変わらず美しく色づいた公園だった。
 さやかも、いつかこの景色に心を打つ日が来るだろうか。
 私は、何事も無かったように、歩を進めた。

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