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耳の中で水がピチャピチャ(脳腫瘍 8)

 ストレッチャーで回復室に運ばれ、ベッドに寝かされたのをぼんやり覚えている。それから少し眠ったらしい。
 看護師さんが血圧を計りに来たので目が覚めた。

 腕にはまだ自動血圧計が巻かれていたが、それとは別に、看護師さんが手動式の血圧計で1時間おきぐらいに血圧を計りに来た。
 この病院では看護師さんが聴診器をはめて耳で音を聞き、細長いスケールの目盛りを読み取る旧式な血圧計を使っている。デジタル式の血圧計より正確なのだそうだ。

 看護師さんが血圧と同時に体温を計り、ペンライトで目に光を当てて瞳孔の検査をする。
 血圧、瞳孔ともに異常なし。
 体温は最初に計ったときは7度8分あったが、計るたびに少しずつ下がっていって、翌朝には6度8分になっていた。

 胸には心電図の電極、腕には自動血圧計と、点滴と輸血の針。
 手術中に輸血しないで済んだので、採っておいた自己血を輸血されていた。

 両脚には手術前にはめられたレッグウォーマーのようなマッサージ器がまだはめてあった。これでエコノミー症候群の予防をしている。
 数秒置きに収縮して脚を締め付けるので、気持ち悪いと言う人もいるそうだが、私は脚がだるくならずに快適だった。

 午後のそう遅くない時間に臼井先生が様子を見にやって来た。
「鼻から水出てない?」
 硬膜を切ったところから髄液が漏れていると鼻から垂れてくるので、先生はそれが心配だったらしい。

「大丈夫です」
 先生は安心したように、にこやかな表情になった。
「脳神経にはどこにも触らなかったから」
 改めて手術の成功を告げられるまでもなく、心配した後遺症が何も出ていないのはわかっていた。

「ありがとうございます。先生、やっぱり腕がいいわね」
 手術が済んだばかりで快調とは言えないが、気分は上々。それも手伝ってかどうか、臼井先生にはついタメ口をきいてしまう。脳外科の部長先生なのに。

 眠ったのか、うとうとしていただけなのか、また看護師さんが血圧を計りに来た。
 瞳孔の検査をするので光を見るように言われ、目を見開いていると、看護師さんの顔がぐっと近づいてきた。
 きれいな顔。色白できめの細かい肌、つぶらな瞳、くっきり整った眉。美人だなぁ、この人。

「眉毛、自分で剃っているの?」
 と、余計なことを聞いてみる。
「自分で剃っていますよ」
「器用ね。両方同じ形に剃るのって難しいのに、きれいな形に剃ってある」
 そう言うと、Kさんというその看護師さんはコロコロ笑い出した。
「手術したばかりの患者さんに眉毛ほめられたの初めて」

 手術で右後頭部を切られたので、左側を下にして横向きに寝ていたが、右の耳に水が入っているらしく、仰向けになったり横向きになったりするたびにピチャピチャ音がした。

 頭には包帯とタオルが巻いてあり、切ったところにはガーゼを当ててあるので、タオルやガーゼの分厚い層をかき分けて耳を触ると、耳の入口(耳殻)が濡れていた。
 触った指を見たら茶色い液体が付いていた。消毒のイソジンだ。これが耳の中に垂れているらしい。

 Kさんに言うと綿棒を持ってきてくれたが、自分で取りたいと言うのに取らせてくれなかった。
「今は私にさせて」
 そう言って、Kさんが綿棒を耳の中に入れ、イソジンを拭ってくれた。
 それでもまだ、耳の中でピチャピチャ音がしている。とても気持ち悪い。

 後で頭のタオルをはずしてわかったのだが、シャワーをかけるように頭全体にイソジンを浴びせて消毒したので、髪の毛がイソジンでぐっしょり濡れて滴るほどだったらしい。
 そのときイソジンが耳の中に入ったのだろう。

 次の日になってY先生に言ったら、「そんなはずはない」と否定された。
「耳はしっかりふさいで、中に入らないようにしてかけたんだから、入るはずないよ」
「でも、耳の中でピチャピチャいっているんですもの。髪の毛についていたのが垂れて、耳に入っちゃったんじゃない?」

 Y先生は納得できないというように首をかしげた。
 本人の私が耳に水が入っていると感じるのだから、いくら先生が首をかしげても、いつか何かのタイミングで入ったのに違いない。そう確信していた。

 だが、タオルをはずして耳の中をしっかり拭っても、いつまでも耳に水が入っている感覚は消えなかった。

 実は、水が溜っていたのは、耳の中ではなく耳の奥(鼓膜の向こう側)だった。
 耳の中にも少しはイソジンが入っていたかもしれないが、手術時に漏れた髄液が中耳に流れ込んでいたのだった。

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