見出し画像

開頭手術(脳腫瘍 7)

 3月7日(月)、朝7時15分起床。顔を洗って術衣に着替えて待っていると、看護師のEさんが迎えに来た。

 九段坂病院では部屋ごとに当番の看護師さんがいたが、ここでは看護師さんは患者ごとに付いていて、Eさんは私に付いている看護師さんだった。
 最初は勝手が違うので、Eさんをつかまえては、
「Eさんはこの部屋に付いているの? それとも私に付いているの?」
 と聞いていた。
 何度も同じことを聞くボケ老人みたいだが、Eさんはいやな顔もしないで、
「アンヌさんに付いています」
 と言った。

 手術は8時に始まるので、7時45分に病室を出ることになっていた。ストレッチャーに乗り、Eさんに押されて出て行こうとすると、KさんとFさんが、
「がんばって!」
 と声援を送ってくれた。
「私、がんばらないもんね。がんばるのは先生だから」
 そんなことを言って笑いながら出発。

 エレベーターで手術室のある2階に下り、廊下を進んで手術室の入口に来ると、ヒューヒュー音をたてて風が吹いていた。空気のカーテンで手術室の内外を遮断しているのだそうだ。

 病室から運ばれてくる間も、手術室の戸が開くのを待っている間も、Eさんに冗談を言って笑わせていた。先生を信頼してリラックスしていたのだった。

 しばらく待たされてから手術室の戸が開いた。Eさんとはここで別れ、別の看護師さんに運ばれて手術室の中へ。

 手術室の中にも通路があり、両側にいくつも部屋が並んでいた。
 ドアの閉まっている部屋、ガラス張りで中が見える部屋、着替えをするのか休憩するのかわからないが、がらんとした部屋、手術室らしい部屋……。
 いくつもの部屋の間を通って1番奥の大きな部屋に到着した。

 麻酔をされずに手術室に入るのは初めてだ。
 手術室の中を見たがっていた国分寺のお姉様が聞いたら羨むだろう。

 ストレッチャーから手術台に移ると、左を下にして横向きに寝るように言われ、先生方や看護師さんが私の周りに集まって一斉に手術の準備に取りかかった。

 左腕に点滴の針を刺されそうになったので、例のガングリオンだと思っていた腫瘍があるからと言うと、腕にマジックインキでマーキングされてしまった。

 胸に心電図の電極をつけられ、腕に自動血圧計のゴムを巻かれた。
 看護師さんが血圧計を何分間隔にしようかと言っているのが聞こえたので、間隔を長くしてと頼んだ。
 巻き方によるのかどうか、これは締めつけられてすごく痛い。長くやっていると腕がしびれてくる。
 どんなに痛いか、先生も看護師さんも1度経験してみるといい。

 例のK……先生が、麻酔のマスクを私の顔にあてがった。
「ちょっとゴム臭いですよ。すぐに麻酔が効いて眠くなりますから」
「管は?」
「眠ってから入れます。差し歯には気をつけますから」
「絶対、折らないでよ」
 そう念を押すと、麻酔のマスクがゴム臭いかどうか判断する間もなく眠りに落ちた。

 ほんの束の間の眠りだった。その間に短い夢を見ていた。
 高い塀で囲まれた広い庭。秋の終わりか春の初めか、柿だか梅だか、立ち木がまばらにあるだけで、草も花もない、ほっこりとした土の庭。
 私はその庭に立っている。

 と、私の足元にはたくさん猫がいて、どの猫も猫特有の丸い形になって眠っている。
 猫たちは10匹ぐらいずつかたまって寝ており、そのかたまりが3つできている。

 1番近くにいるかたまりの1番手前には、この間死んだチビと、30年も前に死んだポチがいて、この2匹だけが眠らずにお互いを見て気色ばんでいる。

 ポチは白黒のツートンカラーの雄猫で、黒い背中にぽちっと白い斑点があるのでポチと名付けたのだが、飼い猫のくせに滅法けんかが強く、我が家の近所の猫たちに君臨していた。

 チビは雌だし、おとなしい性格の猫だから、ポチとにらみ合ってもけんかには発展しないだろう。
 そう思って見ていると、ポチにもそれがわかったらしく、にらむのをやめて寝る体勢に入った。
 身構えていたチビも、すぐに気を抜いて丸くなった。

 何10匹もの猫たちが私の足元で丸くなって眠っている……ただそれだけの夢。
 今までこんなにたくさん猫が出てくる夢を見たことはない。
 手術の時にこんな夢を見たのも不思議な気がする。
 死んだ猫たちが、私を守りに来てくれたのではないだろうか。

「アンヌさん、終わったよ」
 突然、声を掛けて起こされた。まだ眠いのに。
 喉の奥に入っていた酸素の管が、ずるずると口から引き抜かれるのを感じた。
 麻酔のマスクがはずされた瞬間に目が覚めたらしい。

「今、座薬を入れますから」
 看護師さんの声がして、お尻に痛み止めの座薬を入れられた。

 管を抜いたので看護師さんが口の周りを拭いてくれたが、鼻水が出て気持ち悪かった。
「看護婦さん、鼻かんで」
 と頼んで、鼻をかんでもらう。

 たった今眠ったばかりのような気がしていたが、手術を始めてから5時間たっていた。
 どこも何ともない。本当にそんなに時間がたったのだろうか?
「あっという間だった」
 と、思わずのんきな感想を述べる。先生たちには大変な長い時間だったろうに。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?