友達100人できたら最悪。年収を上げたいなら嫌われろ。
ところであなたは「良い人」でしょうか?
そう聞かれて「私は違います!」と答える人は少ないでしょう。なぜならみんなが好きな面接の回答で「私は潤滑油のような人です!」と人間関係を円滑に回すスキルを持っているとアピールすることが多いからです。
「良い人」という言葉は、一見、褒め言葉のように聞こえます。しかし、最新の研究によると、年収が平均値以下の人々の中には、この「良い人」が多いことが明らかになりました。では、これは何を意味するのでしょうか?本当の善意は、経済的な状況とどのように関連しているのでしょうか?
私たちはしばしば、「良い人」という言葉を聞きます。それは、他人を思いやり、親切に行動する人々を指す言葉です。しかし、最近の研究は、年収が平均値以下の人々の中に「良い人」が多いというデータを示しています。
ヒーローとヒールの反転
このブログは面白いので見てみてください。佐々木俊尚さんもお勧めされておりました。
倫理観的に(人間性的に)正しらしい答えは、ブログの筆者でしょう。しかし何が成功かは、人それぞれですが、現代の社会観念上あがめられるのは、マウンティングする大企業のエリートですよね?
私もあなたも昔からテレビ、雑誌などでヒーロー、ヒロイックなものはブログの著書のような倫理観が社会通念上正しいとされる側でした。いわゆる清貧、心優しい人です。
しかしながら"そうなっていない"のが現状です。このようなことがなぜ起きているのでしょうか?
友達100人できるかな?
みんなが歌わされた曲で「一年生になったら」という歌がありましたよね。
その中の歌詞で「友達100人できるかな?」という部分がありました。つまり友達は多い方がいいという観念から子供たちに歌わせているのでしょう。
つまりみんなと仲良くしましょうね!ということです。つまり、みんなと仲良くなれることは正しいのです。
みんなとは何か?つまり友達は分け隔てなく仲良くしましょう、つまりみんな友達だということです。(クラス単位で100人は考えにくいですからね。)
ですが、みんな=全ての人ということは、善人か悪人か?近似値か外れ値か?(親の年収、学習能力の有無)も分けることなく仲良くしましょう。ということでしょう。
確かにこれは正しいことでしょう。倫理観に照らし合わせても。
しかしながら、これは本当に可能でしょうか?
友達は分別しない。
友達とは、
上記したことが定義です。この同等とはなんでしょうか?現代、差別はすべからく禁ずるものになっています。確かにそれは良いことです。みんなが仲良くできれば貧困も戦争も無くなるはずですから。
しかし、あなたの学生の時に同等と言える人たちは何人ほどいたでしょうか?
つまりあなたと同じようなタイプの人です。親の年収や、知能レベルです。
親の年収はとても大事な要因です。なぜなら遊びに行くとき、例えばお菓子を買ってから行くとしましょうか。
A君とB君そしてC君の3人でお菓子を買って誰かの家に行きます。その時に親の年収が違えばお菓子の質、お菓子の数、ジュースを含むか含まないか?家の大きさ、個人の部屋があるかどうか?ジュースを出してくれるか?
これらの要素がバラバラであれば誰かが誰かにフリーライドすることになります。
例えばA君はお金持ちの家の子、B君は中流家庭、C君は貧困家庭だとします。そうなるとA君は毎回みんなの分のお菓子を持っていけますし、ジュースも出せる。その上個別に与えられた大きな部屋もあります。B君はA君の下位互換、つまり多少の負担を感じます。C君に至っては全て難しそうです。
そうなると人間関係的にA君に対する負担が強いられます。そしておそらく力関係はA君が上位に来るのではないでしょうか?(もちろん子供なので暴力性も含まれますので一概には言えませんが。)
これでは同等な相手とは呼べませんよね?しかしこれはどこでも起こりうることです。つまりクラスというグループ内でも上下が生じるということです。
カースト制は本能か?
カースト制度や階級制度は、世界中の多くの社会で歴史を通じて見られる現象です。これらの制度が形成された理由には、本能的なものもあれば、管理上の便宜から生じたものもあります。
歴史的観点
カースト制度や階級制度は、農耕社会の発展、定住生活の開始、そして国家形成の過程で生じたと考えられます。
これらの社会では、人々が集団で生活するにつれて、労働の分担、リーダーシップの確立、そして社会秩序の維持が必要となりました。
特に、資源の配分や社会的権力の分配に関して、明確なルールや階層が形成されることで、社会の安定性が保たれました。
古代インドのヴァルナ制度や中世ヨーロッパの封建制度など、多くの歴史的カースト制度や階級制度は、それぞれの社会が直面していた特定の経済的、政治的課題に対応する形で発展しました。
これらの制度は、しばしば宗教的または神話的な正当化を伴っており、社会秩序の維持や権力構造の正当化に利用されました。
心理学的観点
心理学的には、人間は自然とグループに分ける傾向があります。これは「イングループとアウトグループ」という概念で説明され、人々は自分たちのグループ(イングループ)を好み、他のグループ(アウトグループ)と区別しようとします。
この傾向は、社会的アイデンティティ理論や偏見とステレオタイプに関する研究で広く認められています。
また、人間には不確実性を嫌い、秩序や予測可能性を好むという本能があります。カースト制度や階級制度は、社会的役割や期待を明確にすることで、この不確実性を減少させ、個人が自分の位置を社会の中で理解しやすくします。
つまりは、わかりやすさの観点から、また、社会の運営のしやすさから私やあなたは、区別(グループ分け)をしているわけです。
つまりみんなと仲良くしましょう。というお題目は実現性が高くない理想ということです。
馬鹿げた理想とも言えるのです。
倫理観と年収
ここで面白い論文の残酷な内容を紹介いたしましょう。
2022年3月、人間環境大学准教授高橋誠さん、兵庫教育大学講師森本啓介さんの共同による論文です。
キャリア教育において育むべき特性的強み(CS)について述べられた論文です。それには以下のようなデータが示されていました。
社会的生活を行う上で重要な倫理的な要素の強み(公平さ、謙虚さ、感謝の心)が低収入層(年収330万円以下郡)と中間層(年収330万円〜695万円郡)の間では見られたが、高所得者層ではそれらの特性を一概に備えているとは言えない。
つまりは社会人として必要とされている、人間関係を円滑に進めるはずの(公平さ、謙虚さ、感謝の心)が高所得者層には備えているとは言えないということです。
またこんな研究もあります。
つまり年収の高い人物ほど友達100人できるかな?などとは考えていないのです。
不都合な真実として社会的な倫理観、つまり優しい人というのは資本主義において成功する要素では無いのです。
それどころか足を引っ張る"枷(かせ)"たりうるのです。
人間の本能には3Fというものがあります。
3F(Fight、Flight、Freeze)は、哺乳類の脳である大脳辺縁系に残る命を守るための本能的な反応の代表例です。闘う、逃げる、固まるの3つの反応のいずれかを選択します。
私もあなたも直感(遺伝)でこれを選択しています。
闘うことを決める
私はどちらかといえば逃げるか固まるを選択するタイプでした。しかし、前職で役職を上げる時全てFIGHTに変更しました。理由は嫌われても良いと思えたからです。
嫌われたところで死なないが、嫌われない選択肢を選べば冷飯を食うと思ったのです。
2年目くらいの時の会議で、私の部署の課長に対して「あなたの管理する時間帯でこれだけのロスがあります。これを改善する方法は指し示してあります。どれも今日からできる内容です。これができない理由は無いはずです。もしあるとしたらあなたの怠慢以外ありませんがどうなさいますか?」と宣告しました。
もちろんブチギレられましたが闘う時は戦うと決めたので、怯むことなどありませんでした。
その後数カ月めちゃくちゃ睨まれながら仕事しましたが、数カ月で同等の課長になったのです。
それはもちろん社長に気に入られているというのもありましたが。
つまり何が言いたいかと言うと、戦うべき時は戦わなければあなたは(もちろん私も)そのまま現状維持、もしくは抜かれると言うことです。
それは論文からも読み解けるはずです。
私やあなたに植え付けられている
《対立せずに潤滑油として過ごす。その方が社会通念上まともである。》
と言うのは間違いなのです。
対立というのは好まれることではありません。もちろん相手の数が多ければ損失も大きいですし、誹謗中傷なども起きるでしょう。
安芸高田市の石丸市長などが好例では無いでしょうか?
あなたはレバーを引けるか?
私もあなたも直感で誰もと仲良くしなければならない。という人との齟齬を嫌うフシがあります。というよりも人間の常でしょう。
しかし、嫌われないというのは誰からも好かれないということでもあります。誰からも好かれる好人物は暗に都合の良い人という意味です。
恋愛だってそうですよね?1人の人と付き合うということは他の誰かと付き合える可能性を消すことです。誰にでも優しい人よりも自分にだけ特別優しい人を好むはずです。
何かを選択するということは他の選択肢を消すことと同義です。何かの仕事をするということは他の人の選択肢を消すということです。
あなたが選ばなかった商品を作っている会社の社長は明日首を括るほど追い込まれることもあるでしょう。
しかし、私もあなたも選択をしなければならないのです。常にトロッコ問題と向き合わねばならないのです。
レバーを引いてどちらがトロッコに轢かれるかを選択しなければならないのです。
人間の人生とは選択の連続です。あなたが選ばなかった道もあなたが選んだ道なのです。
私やあなたは生まれ持っての捕食者では無いかもしれない。日本人の特性としてL型(セロトニントランスポーター遺伝子のタイプ(long)のことで、セロトニンの分泌量が多い遺伝子。所謂不安遺伝子)が多いので当然です。
ですがサバンナに見えるこの世界でビジネス刈り上げゴリラに、私やあなたのようなペキニーズでも立ち向かう方法は五万とあります。
サバンナで飯を食うには私やあなたのようなペキニーズが木陰で震えていては餓死するだけです。
時には同族の飯を奪ったり、時にはビジネス刈り上げゴリラの飯を目を盗み食べたり、寝首を襲ったり、セドリックでビジネス刈り上げゴリラを轢き殺したりする必要があるのです。
それらは全て《立ち向かう》という戦いの選択です。逃げるにも立ち向かう逃げと背走があります。
それらの選択肢はあなたの目前にあるはずです。
ーーあなたがどのような選択をするかはあなたの自由ですが。ーー
それでは、また、水曜日。
あどりでした。
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