答え合わせはまた明日

先ほどまで同じ電車で時間を共に過ごしていた老若男女が、乗り換えのために、跨線橋の階段を一斉に駆け上がっている。無事に我々を送り届けた車両、そしてこれから定刻の出発を待つ乗り換え先の車両は、人間がこうも必死になって走っている様を見てどう思っているのだろう、といつも僕は考えてしまう。自分たち電車は人間から頼まれた通り、オンタイムで走っているだけなのに、そのシステムに人間たちがまんまと飼いならされている様子はさぞ滑稽に映っていることだろう。それとも有機生命体の謎の連帯感に対して、逆に感心しているかもしれない。

しかし今日に限ってはそんなことを考えている余裕もない。

急がなければ次の24分発碧南行きに間に合わないのだが、一方であまり歩みを速めすぎると、先を行く彼女に追いついてしまう。

彼女は僕らと同じように名鉄刈谷駅の改札をくぐり、24分発の碧南行きに乗ることだろう。この時間ならきっと2両編成だから、車両を同じくする可能性は非常に高い。
「ねえ、次の39分発にしない?」
15分も何もないホームで待つことになるのだから、これほど旨味のない提案はない。
「もう兄貴に24分発乗るから迎えに来てって連絡しちゃったよ」
「そっか…」

まあ、これも自分でまいた種だ。

***

「ねえ、満員電車に乗っているときにさ、車両にいる全員がどの駅で降りるかが一目でわかったらいいなーって、思ったことない?」退屈しのぎに僕は雪夫に話しかけた。
「DEATH NOTEの死神の目みたいな感じ?」
「そう。そうすれば『この人が次の駅で降りるなら、空いた席に座れるように近くに立っておこう』とか、『このポジションに立っていたら、席が空いた場合隣の人とお見合いしてしまいそうだけど、隣の人は自分より手前で降りるらしいから、その区間ぐらいは譲ってあげよう』とか考えられるじゃん」
「そんなことになったら考えることが増えて余計面倒くさいよ」
「あとこういう、近郊列車型のセミボックス席の場合、どこまでが同じグループか、とかが分かれば4人掛けで自分以外全員同じグループとかになっちゃって気まずい思いをする、みたいなリスクも減るのになーとか」
「てかさ、今日混んでないし、現に僕ら座席に座っているじゃん」
確かに、車社会のこの街では、正月の電車は意外と空いているのだ。しかも今年は新型コロナウイルス感染拡大の影響がある。車両にいるのは僕ら二人のほかに、老夫婦と、男子高校生4人組、3歳くらいの男の子を連れた夫婦、そして同世代と思しき女性一人…のみだ。
電車を見まわしたとき、その同世代と思しき彼女と目が合う。
あ、あの子は…。
「キミあれでしょ。今日電車に乗ったらこの話をしようと思って、さしずめ昨日の夜から決めてかかってたってクチでしょ。もっと僕との会話を即興で楽しんでほしいよね」
「……ん?ああ、そうだね」
「何、知り合い?」
雪夫が扉付近に立っている彼女に目を向ける。

「あー、実はさ、元カノなんだよね」
「え、元カノ?」
その瞬間彼女と目が合った。もしかしたら聞かれてしまったかもしれない。
まずい。多分彼女も刈谷で名鉄三河線に乗り換えて、終点の碧南駅まで乗っていくことだろう。これから40分ほど時間を共にしなければならないと考えると迂闊に「久しぶり」なんて挨拶しても後が持たないし、かといって「聞かれたか、聞かれていないのか」もやもやした状態のまま過ごすのもいたたまれない。

そんなことを考えながら、しぜん僕は雪夫の話を上の空で聞く形になった。僕が話を聞いていないことに勘づいたのか、雪夫は、まあいいけどね。とだけ付け足して、今は窓の外に目を向けている。
何となくつられて僕も視線を移すと、刈谷駅南口の繁華街のものと思われる、煌びやかな大看板が右から視界に流れてくる。名古屋に出かけたときはいつも、この風景が僕をお出かけ気分から現実へと引き戻すのだ。

まもなく刈谷、刈谷です。

***

JRに比べたら何とも愛くるしい規模感の名鉄刈谷駅の改札をくぐり、Uターンして碧南方面の階段を下りる。しかし、下りた先に電車はない。なぜなら、2両編成の場合、停車位置の先頭は、下りた先よりも数メートル後方になるからだ。
「これいつも思うんだけど、もうちょっと前寄りに止まればいいのにね」
僕は雪夫に対して聞こえるか聞こえない程度の声量でボソッと呟いた。
今さっき下りた階段の柱に遮られて狭くなっているスペースには、これから家に帰る田舎者たちが押し合いへし合いしながら先頭車両の扉に向かっている。
「君、持論の前に『いつも思うんだけど』『前から思ってたんだけど』ってつけるの口癖だよね」
雪夫はいつも僕の提示する話題に対して、内容でなく、その形式・所作に対してしかコメントをしてくれない。

僕らが乗った車両は、名古屋からここまで一緒に移動してきた人たち、刈谷で用を済ませ変える人たちが合わさって、ギリギリ全員座れるか座れないかという混み具合だった。僕らは先頭から2番目の扉付近に並んで腰を下ろすことにした。
すると、扉付近に立っていた女性が、僕と手すりの間、ベンチ型座席の一番端に座った。
まさか。隣に座るか?普通。彼女がどういうつもりかはわからなかったが、雪夫はさっき話題にした女性が隣の隣に座っていることなど意に介さず、というか気づいてすらいない様子でスマホをいじっている。
今は雪夫と二人でやり過ごしているから何となく気まずさも和らいでいるが、三河高浜駅で雪夫が先に降りてからの残りの12分間彼女と隣同士で過ごさなければならない。

――三河高浜、三河高浜です。ここで反対電車を待ちます。車内保温のため、一度扉を閉めます。発車までしばらくお待ちください。

「ねえ、三河高浜だよ」僕は右隣でコクリコクリ船を漕いでいる雪夫に声をかけた。
「反対電車が来て次扉が開いたときに帰るよ」
いつもなら早く帰ってほしい。鞄の中の文庫本を読んだりうとうとしたりして残りの乗車時間自分の世界に浸っていたいと思うのだが、この日に限っては反対電車が車でと言わず、一緒に終点の碧南駅まで乗って、折り返し知立行きが出発するのを僕の方が見送って別れたいくらいだ。

――それでは扉開きます。扉付近の方ご注意ください。

「じゃあ、また次はお盆休みとかにでも。その頃にはみんなで飲み会とかやれるといいね」
「あ、うん。じゃあ」
「うん。ありがと」

さて。
ここから、高浜港、北新川、新川町、碧南中央、碧南と、5駅分彼女と隣同士で過ごさなければならないことになった。

***

「あのさ。久しぶり。覚えてるかな? 多分JRから同じ電車乗ってたと思うんだけど。」
「え?久しぶり!隣座ってたのに全然気づかなかったよ。元気だった?高校以来だよね」
「あ、気づいてなかったんだ。」
「私目悪いんだよね。それに、ずっと音楽聞いてたからさ。そうだったんだ、何か恥ずかしいな」
「そっかそっか。いや、こっちもずっとツレと喋ってたから声かけるタイミングもなくてさ。」
「あ、私引っ越して今北新川なんだよね。じゃあまた同窓会とかで」
「そうだね」



という展開になることを期待して、思い切って声をかけてみることにした。

「あのさ。久しぶり。覚えてるかな? 多分JRから同じ電車乗ってたと思うんだけど。」
そうすると彼女は僕の隣の席から立ちあがり、反対側、僕と向かい合わせの位置に座りなおした。
私のこと、覚えててくれたんだ。
窓から差す夕日が逆光になって、微笑む彼女の表情はほとんど見えない。
僕は自分が今どんな顔をしているかもわからず、これからどのように展開するのかもわからず、曖昧にうなずいて返した。
気づけば車両は、僕と彼女の2人以外誰もいなくなっていた。
「さっきJRで見かけたときに気づいたんだけどさ」
「うん。」
「僕らの話とか、聞いてた?」
「うん。嬉しい」
やはり聞かれていたのか。友達同士のしょうもないやりとりだと伝えて素直に謝ろうかと思ったが、「嬉しい」が妙にひっかかる。
だって、僕と彼女は付き合っていたことはおろか、中学、高校時代一度も同じクラスになったことすらないのだから。

「その時計、まだしてるんだね」
この時計はさっきコメ兵で買ってきたものだ。
僕はパラレルワールドに迷い込んでしまったのかと一瞬眩暈を覚えた。僕と彼女以外誰もいない車両というのが、何ともそれらしい。『ゲゲゲの鬼太郎』で似たような話があった気がする。
「ああ、君と一緒にいたときから、この時計してたんだっけ?」
してるわけがない、さっき買ったばかりなのだから。

***

状況を整理しよう。
先ほど僕はJRの車内で彼女を見かけ、雪夫に「知り合い?」と聞かれ、中高の同級生で6年間一度も喋ったことのない倉田さんだと言ったところで盛り上がらないだろうと思い、「元カノ」と口から出まかせを言った。どうせ彼女と喋ることなど今後ないし、共通の知り合いもいないから、僕のジョークに抜かりはなかった。思いのほか雪夫のリアクションが大きかったこと以外は。
彼女について考えられるのは2つだ。僕と雪夫とのくだらないやり取りを耳にして、あえてその設定に乗っかることで僕を馬鹿にしているか、学生時代僕と倉田さんと付き合っていたという事実が存在するパラレルワールドに迷い込んでしまったか、だ。

後者は現実味がないが、前者も必然性がない。

「こうやって二人で電車に乗って帰るの、いつ以来かな?」
彼女はまだ僕の知らない世界の話をし続けている。
どちらにせよ、ここまでのやりとりをすべて自分の認識した現実通りに訂正したら何が起こるか分からない。もしかしたら今いるこの世界が消滅して一面真っ白な世界が現れてしまうかもしれない。そうでないにしても、気まずい空気が流れることだけは事実だ。何となく怖くなって、僕は彼女の設定に合わせて会話を続けることにした。
「高校の頃は、どっちかが部活早く終わったら、門のところで待ってて、一緒に帰ってたよね」
思ってもないことを言葉にしている自分も、 客観視すると怖かった。多分、先の展開が読めないという点では真面目に訂正するのと怖さは変わらなかったと思う。
「えー?そうだっけ。そもそも田上くん部活入ってなかったじゃん」
思わず「よく知ってるね」と言ってしまうところだった。彼女が作る世界は完全に虚構ではなく、ある程度事実に即して構築されているらしい。さっきから話題が、僕の身に着けているものについてや、過去についての質問ばかりで内容がふわふわしているはそのせいなのかもしれない。もどかしいので、僕は思いっきり嘘を切り込むことにした。
「あ、中学校卒業したあとにさ、春休みに二人で水族館行ったよね。そのときの帰りもこんな感じだったよね?」
そんな事実はまったくないが、逆に言えば話を膨らませられる自由度が高いから、なかな良いパスを出したのではないかとも思う。その場しのぎの時間稼ぎではなく、碧南駅に着くまでの限られた時間の中で、二人の虚構世界をできる限り完璧に作り上げようではないか。僕はいつしかやる気に満ちてきていた。
「ああ、そうそう。その日って名城線反対回りに乗っちゃってさ、帰り遅くなっちゃった日だよね」
彼女の言うことはすべて100%嘘なのに、絶妙に本当らしい温度で脳に浸み込んでくるところが怖い。名古屋港水族館なんて、幼稚園以来一度も行ってないけれど、彼女と話していると、僕が忘れているだけで行ったことあるのではないかと思えてくる。洗脳というのはこのように行われるのだろう。
「そうだ、そのあとさ、大学で田上くんが大阪来てくれて、一緒に海遊館行ったときも二人して電車間違えたよね」
彼女はそう続け、さながら当時の写真を探すかのようにスマホを取り出し、何かをスクロールしている。
即興で話し続けたせいで設定に矛盾をきたしそうだ。忘れないうちにメモをしておこうと思った。
僕もスマホを取り出し、メモ機能に重要な設定を入力していく。

《メモ》
中学時代
・卒業後…二人で水族館(名古屋港?)←名城線乗り間違える
高校時代
・不明
大学時代
・倉田さん…おそらく大阪に進学
・時期不明…二人で海遊館に行く←電車乗り間違える

せめてあと「いつからいつまで交際していたのか」という情報くらいはほしいものだ。今の情報だけでも少なくとも4~5年は付き合っていたことになるのだが。

ーーまもなく碧南、碧南。終点です。
この電車折り返しまして57分発知立行きです。発車までしばらくお待ちください。

どうやら時間切れのようだ。ここまで頑張ってきたが、ここまでの頑張りは今後二人の人生に何の糧にもならない。
彼女は電車が停車するより早く立ち上がり、扉の前に立つと、僕の方を向いてこう言った。
「明日またゆっくり喋ろうよ。碧南から7時12分発に乗って、刈谷でご飯でも食べながらさ。いい?」
「ああ、いいよ」
「じゃあ決まりね。それじゃ。」
そう言うと彼女は、扉が開くやいなやホームへと降り去っていった。何となく電車を降りてからも二人で居続けるのが気まずくて、僕は追いつかないようにしばらく車内で過ごしてからホームに出た。

ツンとした寒さが鼻から脳へ通り抜ける。
途中、長い長いノリツッコミではないかと期待もしたが、結果は何とも中途半端に終わってしまった。ただ、どちらも最後まで音を上げなかったことは賞賛に値すると思う。
別れ際に明日の約束までとりつけてしまったが、これはこの設定は明日まで持ち越されるということなのだろうか。いや、実際にゆっくり話をするわけではなく、「電車の中で久々に再開した男女」というタイトルのエチュードの中の、単なる台詞として述べたという可能性も捨てきれない。
まあ、答え合わせはまた明日でいいか。どうせ明日も暇だし。
僕はスマホに入力したメモを保存し、改札を抜けた。

#小説 #短編

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