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薄暗い下町のゲームセンターで、小学生が2万円を使い果たした話④

ばーばの家に行くたびに、渡される小遣いが増えていった。大人になってからもよく小遣いをもらっていたが、病気が分かってからのばーばがくれる額は、右肩上がりだった。彼女は、自分があとどれくらい生きるかを悟っていた。自分が蓄えた金を、孫に沢山渡しておこうと思ったのだろう。「取っておいてもしょうがないからね。なんかに使いなさい。」といつも言っていた。

ある日、団地に行ったら、顔を見るなり、はいこれ、と3万円を私に手渡した。この間2万もらったばかりだったが、ありがとう、と素直に受け取った。
こたつに入ってひとしきりおしゃべりしたら、私は息子が乗ったベビーカーを押して、母はばーばが乗った車いすを押して、近くの公園まで散歩した。私も子どもの頃に遊んだ場所で息子が遊ぶ様子を、ばーばはしばらく眺めていた。日差しが暖かい日で、私たち以外誰もいない公園は、とても穏やかだった。ずっとこの時間が続けばいいのにな、と思った。

その夕方の自宅への帰り道、錦糸町の丸井に立ち寄って、今日もらったお金でヴィヴィアンのベレー帽を買った。昔から私は何一つとして変わっていないな、とレジの前で自らに軽く呆れつつも、その直後に、でも、もう私は大人で、母と離れ離れに住んでいて、ばーばは病気になって、だから、あの時とは違うんだ、と気づいてしまった。そうしたら、涙が溢れそうになったので、慌てて下を向いた。ベビーカーに乗っていた息子が、私の顔を心配そうに覗き込んだ。

何週間か経って、母からメールが来た。ばーばの容態が悪く、痛み止めでなんとかしのいでいるという。見舞いに行く、と返信したが、もう後は私達に任せてほしい、とすぐに返事が来た。母と伯母は二人でずっと団地に泊まりこんで面倒を見ていた。少しでも何かできることをしたいと思ったが、丁重に断られてしまった。
「残念だけど、もう、あなたの知っているばーばじゃないのよ。」
痛み止めの薬で朦朧としていて、恐らく私のことを認識できないという。前の姿のままで、ばーばを覚えておいてほしいから、と母は言った。私はそれから、ばーばに会うことはできなかった。もちろん悲しかったけれど、ばーばが望むことは何か、と母と伯母は考え、そう決めたのだろう。

そのしばらくあと、ばーばは亡くなった。最後は母と伯母に看取られて、痛みを伴う闘病の末に、この世を去った。葬儀は団地のばーばの家で行われて、私達がよく出前のラーメンをすすっていた部屋にお坊さんが来て、お経を読んだ。小さかった息子は、その異様な雰囲気におびえ、ずっと泣いていた。もしかしたら、何か見えるのかもしれませんね、とお坊さんは言ったが、もしばーばが見えているのだとしたら、私も一緒に見たかった。

葬儀が終わり、色々な片付けなどを母と伯母で済ませた後、あの団地の部屋は引き払うことになった。色々なことが済むタイミングで、私も母と一緒に団地に行った。これが、ばーばの家に行った最後だった。いつもの部屋よりもだいぶこざっぱりして、ばーばが育てていた花たちも今はなかった。
心の中で部屋にあいさつをして、外に出た。いつも通らない道を通った帰り道。ぽつんとブランコだけがある公園に通りかかった。私はここに来たのは初めてだったが、母は、よく小さい頃に遊びに来たのだ、と話した。
「なくなっちゃったな、実家。」
と、母が呟いたとき、私は母が小さな子どものように見えた。そのように見えたのは、最初で最後、この時きりだった。

ーーー

「おーい」と声がして、ふと顔を上げると、小学生4人が私の方を向いて手を振っている。彼らはひとしきりゲームセンター内での徘徊を終え、最後にエアホッケーをすることになったようだ。3人が財布からお金を取り出そうとしていたが、1人はもじもじしている。どうやら彼はお金を使い果たしてしまったらしい。私は彼に歩み寄り、自分の財布から100円を取り出して、はい、と渡した。人からお金をもらってはいけないと、きっと家でしつけられているのであろう彼は、一度遠慮をしつつも、それでも私がいいからやりなさい、とお金を差し出すと、ありがとう、とうれしそうに受け取った。

4人対戦でエアホッケーをしている彼らを、私はまた遠くのベンチに座りながら見つめていた。友達と一緒に楽しそうに遊ぶ息子は、来年中学生になる。ばーばもこういう気持ちだったのかもしれないな、とその時ふと考えた。ばーばの家のにおいと、たばこのにおい。鼻の奥に、ふんわりと流れてくる懐かしいにおいを、忘れないように、心に焼き付けるのだった。

おわり

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