朧灯

おぼろと です。いつもは絵を描いてる

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絵 https://www.pixiv.net/users/66470971

    • 夢という光の話

      昨晩、ずっと想っている人の夢を見た。 昨日、谷川電話さんの「【好きな人あるある】 夢でも逢えない」っていうツイートを見て、本当にそうだって共感した。だからちょうどその晩に貴方の夢を見ることなんてあるんだ、ってびっくりした。 夢の中で私は小さなホールにいた。そこはコンサートの会場だった。正確に言うと夢は、そこに向かっている所から始まった。そこに行くまでの道は、両脇に少し雪を被った灰色の高い山がそびえて白い土の道が細く蛇行しながら続き、周りには草原が薄く広がって、北欧

      • 2023年1月9日

        もうどうしたらいいのか全然分からなくなってしまう。なにが幸せなのか分からなくなってしまう。 わたしは名を挙げたかった。有名になりたかった。愛されたかったから。だから業績に固執した。わたしは優秀でいようとした。だってすごいことを成し遂げたひとや、歴史に名を残し今日まで愛されるひとはみんないい大学を出ているから。だからわたしも、と思った。 そして、すべてを抑圧した。楽しいことから距離を置いた。自ら苦しい檻の中に閉じこもりに行った。そしてその狭い檻の中にいたら、当然苦しかっ

        • 2023年10月9日

          何をする気力も出なくて、ベッドで微睡んでいたら夜になった。レースカーテンの外の街灯の光だけがぼんやりと射す部屋で、ただ死にたいと思っている。未来に希望が見えない。明日にも、来年にも、ずっと先の将来にも。もう許してほしい。何も無い自分でもそのままでいいと認めてほしい。ちゃんとしていないと愛されないと勘違いしている自分をもう赦してほしい。遠くにいる手も届かない貴方だけがただ救いなのだ。実生活に登場しなくても、頭を撫でてくれなくても、愛を認めてくれなくても、それでも貴方に救われてい

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        絵 https://www.pixiv.net/users/66470971

          2023年10月19日

          生きがいなんてどこかに行った。ただ特急のような現実がとめどなく降って降ってくる日々。誰も見守っていてはくれない。誰にとっても大事な存在ではない自分が今日も学校を這いずるように歩く。「もう生きてなんかいない、死んでいないだけだ」そんな言葉をどこかで聞いてから、ああそれだと腑に落ちて、それでも電車には飛び込めない。鈍行じゃ死ねないし。死んだあとに悲しむ人がまだいる自分は幸せなのか。責任みたいなものだけが私の命を引き留めている。誰かに助けを求めても、その人が心の底から私を許してくれ

          2023年10月19日

          心臓が晩秋の風に洗われて

          もう爆発してしまうと思いながら一週間を生きる。喉元に爆弾を抱えながら生きている。 秋の風に過去を思い出す。秋ってこんなに寒かったのか。思い出の中で去年や一昨年の秋の私がまた息をし出す。心臓が晩秋の風に洗われて、新鮮な涙を零している。もういない人を想って。 高校生活に救いがあったなら。たとえば独りで凍える私に手を差し伸べてくれる君が、いつだって私を見ていてくれたら。廊下の外から手を差し出して、私を学校から連れ出してくれる。二人で踊るの。宙に浮いて、制服のスカートが靡いて

          心臓が晩秋の風に洗われて

          自分を認知しない相手を、愛するということ

          ヨルシカを愛してきました。初めはただ彼らの音楽を好んで聴いただけだった。でも確かにそれは鮮烈な経験で、人生でこんなに鮮やかで瑞々しいものに触れたことなどなくて、しばらくの間、彼らの音楽のことしか考えられなくなった。気づいたら根こそぎ心を奪われていた。それから何年も、彼らを第一に愛して人生を送ってきた。彼らは私の世界のすべてだった。今でもそれは変わらない。それくらい、彼らに想いを掛けてしまっている。 それは時として苦しさに変貌する。自分と彼らの立場を客観的に見下ろしてしまっ

          自分を認知しない相手を、愛するということ

          芸術と社会の視線

           多くの人が芸術を肯定していると思う。いいものを見ると、素敵、と思う心のある人はたくさんいると思う。でも、芸術がなにか他のものと天秤にかけられた時、芸術の方が否定されることがあって、思ったことがある。  私にとって、ただ芸術だけが救いだった。芸術に触れているときだけは必ず心が癒された。そして何かを犠牲にしてまで芸術に従事できる能力と心を持った芸術家たちを心から尊敬していた。そういう生き方、そういう、自分の心に従って、自分のなかの大義に向かって一心に生きるような生き方こそほん

          芸術と社会の視線

          成りたい人間とほんとうの自分

          成りたい人間になることと、ほんとうの自分でいることは、相反する場合がある。 どうして成りたい人間像があるんだろう。私の場合、自分が持っていない技術や才能を持っているひとのことがずっとかっこよかった。だからそういう「自分の持っていないもの」が欲しくて、持っていることが羨ましくて、それを手に入れようとした。 でもこの場合、もし自分がそれまで持っていなかったものを手に入れられたら、自分は今までの自分とは異なる存在になってしまう。少なくとも、「そういうものを持っていない自分」

          成りたい人間とほんとうの自分

          神様は幻想なのか

          苦しい。いつも苦しいって書いてる。まあ苦しいからここに吐き出しにくるのだが。 持っていないものがある。持たざる者であるという自覚がある。それでそのことがすごく恥ずかしい。持っていないということは、自分の欠陥を証明してしまっていると思うから。いつも持たざる者であるということを隠そうと、繕おうとしてしまう。そして自分が「持っていないのだ」と自覚せざるを得ないとき、またそれが周りに露呈してしまうとき、たまらなくなって遠くの「貴方」という存在に縋ってしまう。 「貴方」に会ったこ

          神様は幻想なのか

          前世

          本物の人生というのはいつも遠くに煌々と佇んでいる。現れては消える。時刻通りに現れては、数瞬で去っていく。 ずっと彼に憧れていた。ずっと彼に焦がれてきた。私の心はずっと彼の作品のもとにあった。その彼が半径数十メートルの所にはっきりと佇んでいる。それが見える。でもいつもなんだか実感が湧かないのだ。あのひとがn-bunaさんなのだということを頭でしか理解できないのだ。 今日も彼は気が付いたらそこにいて、静かに言葉を紡ぎ出した。少し声が重かった。でもその息を継ぐ音が少しずつ彼の輪

          冬木立の町

          毎日毎日こんなに近くに居りながら、行ったこともないというのももったいなさすぎると思ったので、前橋文学館に行った。もちろん萩原朔太郎目当てで。閑静としていたが落ち着く空間だった。映像の解説が分かりやすかった。遺品の展示もあって、ほんとうに生きていたひとなのだということを間近に感じた。もう没後80年なのか、賢治と近い時代の人なのだな。医家の出身なのに継がずに詩人になるなんていいなあ、わたしも自由に生きたい、そのくらい大胆に生きたい…。 彼の慕った女性、「エレナ」というのはクリ

          冬木立の町

          10年前の同い年

          今日、『カーテンコールが止む前に』を聴いた。最近は忙しくて音楽を聴く暇もない。というかわざと作らないようにしていた。変にかき乱されて本業に手がつかなくなってしまいそうで怖いから。 それが発端だった。最近はヨルシカよりナブナさんのボカロが刺さるなぁ。そうじゃん、ナブナさんがこれ作ったのが今の私と近い歳の頃だったからじゃん、きっと。そこでふと思いつく。彼がこれらを作り上げたのは、ほんとうにちょうど今の私と同い年のときだったのではないか。少し焦る。ニコニコ動画で彼のアカウントを

          10年前の同い年