見出し画像

だれかが覗いてるの

 「おトイレが怖い、だれかが覗いてるの」

 甥っ子がそう言い出したのは、盆に家族がみんな集まった時のことだった。
 家族皆と言ったものの、最近では大家族も少なくなってきているだろう。例にもれず我が家も、私と母、そして妹家族の三人だから全員あわせても五人だけだ。
 それでも盆暮れになれば一つの家に揃うのは、きっと歓迎すべき事だろう。
 この家は今は私と母の二人きりで住んでいる。以前は父と、そして妹も住んでいた。父は私がまだ若い頃になくなった。妹が結婚をして出て行ってからは随分と家がひろく感じたのを覚えている。
 新しい訳でもなく古すぎる訳でもない。
 なんてことのない一戸建てだ。
 昔からここに住んでおり、周囲の住民の顔ぶれもほとんど変わらない。そんな長閑な地域だった。
 だから甥っ子が怖がるようなものは何もない。

 「そうなの? でもねぇ、おトイレの向こうには壁しかないのよ?」

 私が笑いながら言っても甥っ子は青い顔で首をふる。

 「ちがうの。覗いてるの」

 そうして、一体だれが覗いているのかを聞いてみても、怯えて首を振るだけだ。ただどうしてもトイレに一人で入るのは怖いらしい。そんなこともあるだろう。甥っ子はまだ幼稚園生だ。
 仕方なく甥っ子がトイレに行きたがる時は誰か大人がつきそって、ドアも開けたままで使うことで何とか納得してもらう。

 「去年来た時には大丈夫だったのにね」
 「最近はね、たまにそういう事があるの。お婆ちゃんに似たのかもしれない」

 妹家族が土産に持ってきたのは有名店のどら焼きだった。
 濃い目のお茶を飲みながらなんともなしに呟くと、妹からは意外な言葉がかえってきた。

 「お婆ちゃんに?」

 祖母のことはあまり記憶に残っていなかった。
 華道の先生をしていたのは覚えている。だが、私とは馬があわずあまり話しをしなかった。
 私は女でも大学を出てしっかり働きたいと思っていたが、祖母は学歴よりも早く結婚をして子供を作ることこそが女の幸せだと思っているような人だったからだ。

 「お婆ちゃん、見える人だったらしいよ」
 「はじめて聞いた」
 「うん、話したがらなかったからね。それに、話すとよくないことが起こるんだって言ってたし」
 「良くないことって? 呪いにかかるとか?」
 「そういうのじゃなくて。まぁ、それに近いかもしれないけど」

 妹は思案するように低く唸る。

 「お婆ちゃんがいうにはね、幽霊って言うのは、そこに残ってる記憶なんだって。本人がとっくにいなくなっても壁の染みみたいに残ってる。それで、たまにその染みに気付いてしまう人がいる。そうするとね、その染みはちょっとずつ濃くなっていくんだって。だから、気付かないふりをする。誰にも話さないでおく。そんな風に言ってたよ」
 「そうなんだ」

 祖母にそんな一面があったなど驚きだ。
 確かに祖母は信心深い人であったと記憶しているが、だからと言って幽霊や呪いを信じているとは知らなかった。

 「でも、うちのトイレに何かが出る筈はないじゃない? だってこの土地は大分前からうちのものだし、この家が建ったのは私たちが子供のころでしょ? 今までなにも事故なんてなかったし」
 「……死が近い場所に行ったり、そういう場所で働いてたりすると、連れて来ちゃう事もあるらしいよ」
 「連れて来る?」

 私が問い返すと、妹は肩をすくめてみせた。

 「だってお姉ちゃん、病院務めでしょ?」

 私は思わず絶句した。
 病院は死に近い場所だと、妹がそう思っていたことがいささかショックだったのだ。

 「この家に何もなくてもお姉ちゃんが連れて帰って来てる可能性はあるし。お姉ちゃんじゃなくても、たとえばお母さんでも、どこかから呼んできちゃったってことはありえるでしょ?」

 ないわよ、そんな可能性。
 思わず言い返しそうになった言葉を飲み込んだ。
 そうなんだ、と私は頷き、どことなくよそよそしいムードのまま、その日のティータイムの時間は終了した。そしてそれ以上はこの話題には触れなかった。
 




 だれかが覗いてるの。

 気にしないように、思い出さないように。
 そう考えれば考えるほど、かえって意識してしまう。
 トイレのドアを開けるたびに小さな窓に視線が吸い寄せられるのだ。

 我が家のトイレはこれといって代り映えのないものだ。家は古いが風呂場やトイレは数年前にリフォームしており、比較的新しいといえるだろう。
 換気と明かりとりをかねた小さな窓は曇りガラスになっている。
 窓の向こうは生垣があるが、さして高さはないもので通りを歩く人が見えることもある。とはいえ、中をのぞき込むためには生垣と家の間に入りこむことになる。多少の隙間はあるものの、あえてそこに入るのはよほどおかしな人だろう。
 幽霊か、おかしな人間か、いったいどちらが怖いだろう。
 私は幽霊を信じたことはなかったから、当然のこと後者の方が怖かった。
 だからと言って、幽霊なら安心できるはずもない。
 だれかがいる。
 その言葉は、トイレのドアをあけるたび頭の中で蘇り視線が小窓に向いてしまう。 
 考えちゃだめ。
 意識しちゃ駄目。
 それでも座面に腰をおろすと、背後からの気配が気にかかる。
 とくに夜は。曇りガラスの向こう側は真っ黒で何も伺えない。誰か窓にべったりと顔を貼りつけるんじゃなかろうか。そんな想像をしてしまう。
 気付かないふりをしないと、段々と染みが濃くなっていく。
 妹のその言葉も頭にこびりついて離れない。

 奇妙なことが起こったのは、二週間ほど経ったころのことだった。
 その日は休日で、ゆったりと二階の自室で過ごしていた。そうして、そろそろ三時という頃合いで、階下のトイレに行ったのだ。
 トイレの戸を開けかけたところで、バタンっとドアが閉められた。

 「ごめん、お母さん入ってたの?」

 私はてっきり先に母が入っており、鍵を締め忘れたのだと考えた。中から返事はなかったが、気にせずリビングのソファで寛いで母が出るのを待っていた。
 こういう事はたまにある。歳をとって母も物忘れをすることが増えたのだが、それを気付かされた瞬間にしばし機嫌が悪くなる。だから、返事をしないのもドアの締め忘れを指摘されて不機嫌になったのだろうと思ったのだ。
 だが母はなかなか出てこない。
 もしかしたらどこか具合が悪いのか。
 そんな風に気になりだした頃合いだ。がちゃんと玄関の戸があいて母が顔を出したのだ。

 「ただいまぁ」

 呑気な母の声を聞きながら、私は目を丸くした。

 「お母さん? どこ行ってたの?」
 「どこって、今日は宮下さんと駅前でお茶するって朝に話したでしょ?」

 そうだった。思い出した。確かにそんなことを言っていた。
 ではつい先ほど、トイレにいたのは誰なのか。あの時、確かにドアの向こう側で誰かがノブを握ったのだ。ぐっと引っ張る感触と、ノブが回るあの感じは明らかに人間のものだった。
 私は呆然としながらも、トイレを開けて中をそっとのぞき込む。
 当たり前のように、そこには誰もいなかった。




 気のせいだ。
 考えちゃだめ。
 だってこの家には何もない。
 私はずっとこの家で長い間暮らしてきた。だから今さら何かが起こる筈がない。
 そんな風にいくら思い込もうとしてみても、少しずつ奇妙なことが増えていく。
 それは一つ一つはとても些細なものだった。
 ドアの前を通った時に水の流れる音がする。
 バタンっとドアの閉まる音がする。
 あるいは、中に入っている時にふと電気が明滅する。
 どれも、気のせいだと思えば気にならない範囲のものだろう。けれど私は、あの時にドアノブ越しに感じた気配がどうしても忘れられずにいた。
 そのせいでちょっとした変化でも敏感に反応してしまうのだ。

 「タカ君がね、うちのトイレで何か見たんだって」

 ついに耐えきれず母に甥っ子の話しを持ち出したのは、とある夕飯どきのことだった。

 「へぇ、そうなの? でもねぇ、うちに何か出るはずはないものね」

 母はあっけらかんとした顔だった。

 「そうだよね。何も起こってないもんね。そういえばさ、お婆ちゃんって見える人だったの? ナツコが言うには、タカ君はお婆ちゃんが見える人だったからその影響じゃないかって言ってたんだけど」
 「そうねぇ、お婆ちゃんもそうだったけど、アンタもそうだったじゃない?」
 「ええ?」

 あまりのことに箸を落としそうになる。

 「もうずっと子供の頃の話しだから覚えてないかも知れないけどね。アンタは赤ん坊の時からよく何もないところに手を伸ばしたり、話し掛けたりしていたのよ。カーテンの裏とか、椅子の下とか、子供なんてそんなものかしらって思ってたけど、やっぱりちょっと不思議だったわね」
 「そうなの? 全然覚えてない」
 「お婆ちゃんが叱ってたからかもしれないわね」

 それもまた覚えていないことだった。
 しかし私は祖母に苦手意識を持っている。その原因が小さい時に怒られたことに起因するならば頷ける。

 「お婆ちゃんはね、アンタが何もないところに話しかけると『やめなさい』って必ず注意してたのよ。『そこには誰もいない。おかしな子だと思われるからやめなさい』って。随分きつい言い方をするんだなって驚いたこともあるわ。それでいつの間にかアンタもそういう事をしなくなって、そのまま忘れちゃったのね」
 「そうだったんだ」

 全然覚えていなかった。
 しかし言われてみればカーテンの裏に誰かがいたような記憶がある。椅子の下、箪笥の中、神社の木の影や歩道橋の上。子供の頃はいろいろな場所に何かの気配をおぼえたが、それは幼さ故の好奇心や、無知に幻想だったのだと思っていた。
 だがもしかして、何かが見えていたのなら。
 それを祖母が『見ては駄目』と何度も咎めていたならば。
 私はいつの間にか見えていた筈の何かを、見えないことにしたのかもしれなかった。

 「ああ、そういえば、この間も言ったけど、週末は宮下さん達とバス旅行に行ってくるからね」
 「え? そうだっけ?」
 「いやぁね。ちゃんとカレンダーにも書いたでしょ?」

 言われてカレンダーを見てみれば、確かに「母 旅行」と書いてある。
 このところ仕事が立て込んでいたせいで、すっかり忘れていたようだ。

 「別に問題ないでしょ?」
 「うん、大丈夫」

 私は肩をすくめて頷いた。
 まさかこの年になって「トイレが怖いから行かないで」など言える筈もないだろう。

 「行ってらっしゃい。気を付けて、あとお土産よろしくね」

 




 家に自分以外が誰もいないのは、さして珍しくもないことだ。
 でも例えば、近所に買物に出かけたり、あるいは友人とどこかに出かけたり。そうして半日ほど母が家にいないのと、丸一日いないのとでは空虚さのまるで違うのだ。
 匂いのようなものだろうか。
 そこにいるべき人がいないと、その人の匂いが徐々に薄くなっていく。
 長い時間、だれもいないとリビングに残っていた気配が消えていく。そうするとその場所はいつもより広く、そして静かで、ひどく空虚に見えるのだ。
 このまま夜になったなら。
 家はもっと広く、いつもよりずっと暗く感じるだろう。
 じわり、じわりと、夕刻に近づいていくたびに、背筋を冷たさが這い上がる。
 いっそ駅前のビジネスホテルにでも泊まろうか。
 だが幽霊怖さに自分の家から逃げ出すなどあまりにもバカバカしく思えてくる。
 そんなものはいる筈がない。子供の歌にだって「お化けなんてないさ」とあるじゃないか。
 ずるずると思考をループさせているうちに、時間は夕刻を過ぎ去ていき、いつも通りに晩御飯を食べている。そうして、風呂まですませてしまったら、今さらホテルへ逃げだす選択肢はなくなった。
 いつも通りだ。
 なんてことはない。
 母親がいないのを良いことにトイレのドアはずっと開けっ放しのままにする。廊下の電気もすべてつけたままならば、何も怖い事はないだろう。
 出来る限り一階には近寄らないようにして、二階の自室で好きな映画を見て過ごす。
 どうしても一階に降りるときには、部屋も廊下も全部の灯りをつけてしまう。
 そうして夜はなにごともなく過ぎていく。
 寝る前にすばやくトイレをすませたあとは、いつもより水分をとらないように心がけさっさとベッドに潜り込んだ。




 バタンっとドアが閉まる音が響いて目を覚ました。
 大きな音に驚かされ、心臓がバクバクと音をたてている。
 なんだろうか。
 恐らく音は一階だ。
 確認するのは嫌だったが、万が一泥棒でも入って来たというならば、ここでこのまま眠っているのはあまりにも無防備過ぎるだろう。
 仕方ない。
 上着を羽織ってスリッパをはき念のためにスマホはもっていく。
 そっと部屋のドアを開け、しばらく耳をすませてみる。音はない。人の気配はしなかった。
 ならばどこか開いたままだったドアが風でしまりでもしたのだろうか。
 ゆっくりと階下に降りていく。
 一階は眠る前に廊下の電気を点けっぱなしにしていたお陰で明るかった。
 誰もいない。
 空虚な廊下に煌々とあかりが灯っている。
 玄関も、勝手口も開いた気配はなさそうだ。
 だが、トイレの戸がしまっているた。ここは眠る前に開けたままにしておいた。一階の窓はどこも閉めておいたから、風でしまることもない筈だ。
 いや、もしかして。
 トイレの小窓が開きっぱなしかもしれない。
 私はため息を吐き出すと、恐る恐るドアを開けてみた。
 案の定、小窓が少し開いている。放っておいても良かったが、ここの小窓は開けっ放しにしておくと万が一雨が降った時に、トイレの中まで吹き込んできて濡れるのだ。
 仕方ない。
 一歩、二歩、トイレの中に踏み込んで小窓に向かって手をのばす。
 窓の外は真っ暗だ。街灯の少ない表通りは、この時間ではほとんど何も見通せない。
 そうして窓に手を伸ばした瞬間に、ふっとトイレの灯りも消えたのだ。
 その時、私はふいに気がついた。

 「おトイレが怖い、だれかが覗いてるの」

 あの時。
 何かが覗いているのだと、甥っ子が怯えて告げた時。
 あれはまだ我が家に訪れて間もない時だった。
 あの子はまだトイレに入っていなかった。

 そうだ、ずっとそうだった。
 ドアを誰かが閉めたのも、灯りが明滅していたのも、水が勝手に流れたのも。すべて家の中のことだった。
 だのに私は、窓の外から誰かが覗いているのだと、ずっと思い込んでいた。
 でも違う。違ったのだ。
 甥っ子がそれを見つけたのは、家の外からだったのだ。
 トイレに誰かが潜んでいて、小窓から外を覗いていた。

 駄目、ちがう。考えるな。考えちゃ駄目。
 壁の染みだ。ただの染みだ。でもじっと見ているとどんどん濃くなって現れる。
 だから駄目。
 考えるな。考えちゃ駄目。
 意を決してふり返る。何もない。大丈夫だ。早く出よう。ここから出よう。
 だがいつの間にかトイレのドアが閉まっている。
 大丈夫、何もない。
 お願いだから、何もこないで。
 ガチャガチャとノブを回しても何故だかドアは開かない。
 鍵はかかっていないのに、どうしてもドアが開かない。
 じっとりと、私の背後でなにかの気配がわだかまる。
 するりするり闇の手が私の身体に絡みつく。
 ひゅうっと生温かな息が頬に触れ、血塗れの女が私の顔をのぞき込む。青白い顔にべったりとはりついた黒い髪。頬にも唇にも、刃物で無惨に切り裂かれた傷がついており、だらだらと血を滴らせたままでいる。
 ひゅうう、しゅうううっと音がする。
 それは首筋のぱっくりと開いた傷口から空気が漏れる音だった。真っ赤な肉を覗かせて、まるでえら呼吸をするように、しゅうしゅうと空気を吐いている。
 噎せ返る血の臭いにあてられて、私は意識を失った。




 次に私が目覚めたのは、冷たい廊下の上だった。
 どうやら私は廊下に倒れ込んだまま一晩明かしていたようだ。幸いにして、私の被害は風邪をひいたくらいでおさまった。他にも気絶した時に頭をうってたんこぶが出来ていたけれど、その程度で済んだのは幸いだったと言えるだろう。
 あの後、調べて分かったのは、数年前に公園のトイレで殺人事件が起きていたということだった。
 帰宅途中のとある女性がストーカーに追いかけられ、公衆トイレへ逃げ込んだ。
 だがそこで追いつかれナイフでめった刺しにされたのだ。
 しばらくは息があったのだが、喉を裂かれて声を出せず、助けを呼べないままに死亡した。
 女性が発見されたのは、翌日になってからのことだった。
 その公園は私の通勤経路にあり、一時期は黄色いテープがはられていた。事件が起こって数年が経過した後も、あの公園を通るたび何故か視線を引き付けられていたのを覚えている。
 私は無意識に彼女を見詰めていたのだろうか。
 そうして彼女も、私を見詰めていたのだろうか。
 今、私の家の玄関には、いつも盛り塩が置かれている。時折それは、黒くなったり崩れたり、あるいは踏みつぶされていることもある。
 彼らの記憶は町のあちこちに染み付いて、いつまでも残っているのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?