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影んぼ

 影んぼを初めて見たのは塾帰りの道でのことだった。

 時刻は20時を回っており、駅前の商店街すら人影がまばらになっている。これが金曜日ともなれば、飲み屋に向かう人たちでもう少しは賑わっているのだが、それ以外の平日はじつに閑散としたものだ。
 街のあちこちにはクリスマス飾りがきらきらと輝きを放っている。電飾で彩られたツリー、サンタクロースの置物に松ぼっくりと星をちりばめたクリスマスリース。
 僕はクリスマスが好きではなかったから、それらから目を反らすようにして俯いて早足で歩いていた。
 クリスマスには良い思い出が見当たらない。
 いや多分、いつだってそうそう良い思い出なんてないのだろう。だけれども、何か分かりやすい行事と結びつくと余計に記憶に残るのだ。

 例えばお婆ちゃんが入院したのも12月のことだった。
 病院のあちこちにもクリスマスツリーが飾られていて、僕はそれを眺めながら子供らしい精一杯の無邪気さで願っていた。
 どうかどうかお願いします。今後一生クリスマスプレゼントはいりません。だからどうかお婆ちゃんを元気にしてください。
 あれは当時の僕なりに、必死の願いごとだった。

 父さんがいなくなったのも、クリスマスの少し前のことだった。
 でも僕はどうにかして事態を良い方向に考えようとこころみた。
 きっと父さんは僕にサプライズをするつもりなのだ。クリスマスの朝にはサンタクロースの恰好で現れて、沢山のプレゼントを持ってきてくれるのではなかろうか。
 結果は散々なものだった。
 クリスマスの奇跡なんてなかったし、サンタクロースは僕のもとには来なかった。

 いや一度だけ。
 ずっと昔に、僕が幼稚園生だったころに一度だけ、サプライズなパーティをして貰ったことがある。
 部屋を真っ暗にして、クリスマスソングを流し、母さんが沢山のローソクが乗ったケーキを運んでくる。僕はきゃっきゃと声をあげて喜んで、父さんも笑いながら大きなチキンを切り分けた。そんな夜がかつて一度だけあったのだ。
 今となれば、そんな思い出がある分だけ、余計にむなしくなるだけだった。



 そんな訳で、眩し過ぎるクリスマスの電飾から逃げるように、僕はさっさと商店街を抜け出した。
 駅前を少し離れれば、浮かれた飾りも少なくなる。それでも時折、どこかの家の玄関先に飾り付けられたツリーを見かけると蹴りとばしたい気持ちが込み上げる。
 これだから12月は嫌いだった。
 寒くて、キラキラしていて、そのすべてが僕の憂鬱になっていく。
 ツリーから目をそらして薄暗いに住宅街を歩いていく。すれ違う人もほとんどいなくなれば、ようやく僕は「ガヤガヤ」と「キラキラ」から開放されて、少しばかり楽になる。
 だが今度は家に帰るのが億劫になり、歩む足どりが重くなる。
 ぽつんぽつんと立つ街灯は、駅から離れればずいぶんと間隔が長くなり、街灯の隙間はかなり暗かった。それでも真っ暗というほど暗くはない。
 だから僕はその不思議な影に気付いたのだ。

 そう、影だ。
 それはアスファルトの上に落ちた丸い影で、ゆらりゆらりと揺れていた。

 なんでこんなところに影が出来ているのだろう。
 僕は足をとめてじっと影を凝視した。
 影がある。だのに影を作り出しているはずのものが見当たらない。
 何もないのに影だけがゆらゆらとそこにある。
 電線になにか引っ掛かっているのだろうか。そう思って上を見上げてみたものの、やはり何も見当たらない。
 そもそも電線は街灯よりも高い位置にあるのだから、例えそこに何かあっても影は落ちない筈だった。
 なんだろうか。
 影に重なるように立ってみても、何も触れ合うものはない。
 だが依然として影はそこにあり、不可思議だけれども恐ろしさは感じない。
 そうしてふと気が付いたのは、薄暗いせいで僕自身の影はほとんど見えないことだった。だけれども、相変わらず揺れる丸い影はそこにある。
 手を伸ばして触れてみようとしてみたり、足元の影を踏んでみたりしたけれど、何も変化は起こらない。
 不思議だ、とても不思議だ。こんな風に何かに興味を引き寄せられるのは久しぶりのことだった。

 「おい、お前さん、そいつのことは放っておいてやれ」

 影に夢中だった僕は、第三者が近くにいたことにまったく気付いていなかった。
 慌てふためいてふり返ると、そこにはひどく疲れた顔のサラリーマンが立っていた。

 「ああ、怪しいもんじゃない。いや、怪しいかもしれないが、いきなり防犯ベルを鳴らしたりはやめてくれよ」

 男はくたびれたスーツを来て、片手にもったタバコからは細く煙があがっている。歳は30代後半あたりだろうか。おそらく母親とあまり変わらない年代だ。

 「おじさんにも見えてるの? これってなに?」

 興味津々に尋ねると、男はため息を吐き出した。

 「なんでもない。なんにもなりたくない奴が、なんでもないものになったんだ。だから放っておいてやれ」
 「なにそれ? どういうこと?」

 身を乗り出して尋ねても、男は軽く肩をすくめてみせる。そうして、もうこれ以上話はないといった様子で、疲れた足取りで歩き出した。

 「ねぇ待ってよ」

 声をかけても男はふり返りもせず去っていく。それはあの時の、最後にみた父さんの背中にも似て見えた。




 次の日も影は同じ場所で揺れていた。
 だから僕も立ち止まって、影が揺れているすぐ隣にしばらく腰をおろしてみる。
 それは不思議な感覚だった。とても寒い。ひどく寒くて仕方ないのに、動きたいとは思わない。
 この道を通る人たちは誰も僕に気が付かない。ここは何もない場所だから、誰かがいるとは思わずに足早に通り過ぎていく。
 街灯はない。マンションの生垣のすぐそばで、道幅は比較的広いせいか邪魔になるようなこともない。たいていの人たちはスマートフォンを眺めながら歩いている。あの小さな画面で他の誰かと繋がっているから、彼らは一人ではないんだろう。
 僕はそうやって通り過ぎていく人たちを、ただぼんやりと眺めている。
 心地よいな、と僕は思う。
 誰も僕に気付かない。
 隣では相変わらず影が揺れていて、何ひとつ喋らない存在だからこそ僕を追い出さずにいてくれる。
 どれくらい時間が過ぎただろうか。昨日のおじさんが歩いてくるのに気が付いて、僕は暗闇から立ち上がった。おじさんは相変わらずタバコをふかしながら歩いている。
 おじさんも僕に気付いたようで、あからさまに嫌そうな顔をした。
 それでも僕が近づくとため息を吐きながら煙草を携帯灰皿に突っ込んでくれたので、きっと根はやさしい人なのだろう。

 「とっとと帰れ。家族が心配するだろう」
 「しないよ。家に帰っても、だいたい母さんはまだ帰って来てないし。帰って来てたらお酒飲んで寝てるもん」

 父さんがいなくなってから、母さんは家に帰るのがどんどん遅くなっていった。
 あなたのためよ、と母さんは言う。
 あなたには惨めな人生は送ってほしくないから。いい大学に行って、生活に困らない職につくの。それで幸せになって欲しいのよ。だからね、あなたもたくさんお勉強を頑張るのよ。母さんや父さんみたいな負け犬になっちゃ駄目なのよ。
 あなたのため。
 あなたのため。
 何度も繰り返された言葉には、僕の望みはこれっぽっちも入ってない。

 「ねぇ教えてよ。これってなんなの?」
 「……影んぼっていうそうだ。詳しいことはしらん。お前さんみたいにそこでずっと座ってたやつが、そのうち誰からも見つからなくなって、それで影んぼになるんだとさ」
 「みんなには影んぼが見えないの?」
 「そいつが見えるやつは、影んぼになれる奴だけだ」
 「それじゃあ、おじさんも一緒なの?」

 問いかけに、おじさんは疲れた顔で笑ってみせた。

 「俺はちがう。俺はそいつになりたくて、でもなりそこなった落ちこぼれだ」
 「なんで影んぼになりたかったの?」
 「見りゃ分かるだろ? 俺は人生の負け犬だ。社会の底辺で飯を喰って酒を飲むためだけに働いてる」
 「おじさんは不幸なの?」

 ははは、とおじさんは笑った。

 「不幸ってほどでもない。これといって何か悪いあるわけじゃない。ただ、幸せに生きる才能がないだけだ」
 「幸せに生きる才能?」
 「坊主には分からないかもしれないけどな、幸せを感じられるのは才能なんだよ。朝起きてカーテンをあけて、それで空が晴れてるだけでも幸せだって思える奴がいる。仕事で褒められり、喰いにいったランチが美味かったり、そういう当たり前の日常が幸せに感じられるかどうかなんだ」

 僕は首をかたむけた。
 幸せってそんなちっぽけものなのだろうか。母さんはいつも幸せのために勉強をしろと言っていた。遊ぶ時間を我慢して、退屈でも苦しくても、将来の幸せのためにとにかく勉強をしなさいと言ってきた。

 「幸せってもっと、すごく大きいものじゃないの?」
 「すごく大きい幸せか。それって一体どんなもんだ? 最高の惚れた相手と結婚する? スポーツ選手になって世界中から拍手喝采をうける? 豪華なボートを買って海の上でパーティをする? そういうやつか?」

 分からない。
 どうだろうか。
 まずスポーツ選手は無理だろう。豪華なボートは少しばかり憧れるけど、大騒ぎするのは好きじゃない。好きな相手と結婚して幸せになる想像はできなかった。だって僕の母さんと父さんは二人とも幸せになれなかった。だから誰かと結ばれることは、必ずしも幸せとは限らない。
 僕の望む幸せとはなんだろうか。
 考えれば考えるほど、それは朧気になっていく。
 もし、幸せがあるとするなら、それはかつてのクリスマスパーティの時のほうがずっとずっと暖かい。

 「僕の幸せ、なくなっちゃったかも」

 だってあれは、もう二度と手に入らない。
 それでも、例えなくしても、今度は僕自身が手に入れればいいだなんて、そんな夢を見てみるのも何だか面倒臭かった。

 「そら、残念だったな。でもまぁ、俺ほど落ちぶれてもいないだろ。だからさっさと帰れ。影んぼになっちまう前にな」

 どうだろうか、と僕は思う。
 ここにずっと座ったまま、影んぼになってもいいんじゃないか。
 死にたいと思うほど不幸でもなかったし、痛いのも辛いのも嫌だった。でも、今日と同じ明日を何度も何度も繰り返すのは、とてもとても退屈で、面倒くさくて仕方ない。

 「ほら、とっとと行け。もうちっと大人になって、それでも人生が退屈で仕方なかったら、その時にまたここに来ればいい」

 促されて僕は立ち上がる。
 面倒くさい。帰りたくない。そう思いながらも、いつも通りに身体に染み付いた習慣で、のろのろと家に向かって歩き出す。
 街灯を避けた暗がりでは、相変わらず影がゆらりゆらりと揺れていた。




 それからも影はだいたい同じ場所で揺れていた。
 それは薄くなったり濃くなったり、大きくなったり小さくなったりしながらも、ずっとそこに在り続けた。ある時は二つに増えたこともあったし、数日消えてなくなって、また現れることもある。
 僕は時折、影のとなりに腰を下ろして時間が過ぎていくのをぼんやりと見詰めて過ごすことがある。
 そうしていると、たまにおじさんと出会えることがあり、僕は彼を引き留めて他愛ないことを話し掛けた。

 仕事って楽しくないの?
 休みの日はなにをしてるの?
 趣味はないの?

 そんな風にあれこれ聞き出してみることもあれば、僕が勝手に喋っていることもある。

 テストで満点をとれたんだ。
 第一志望の高校に合格した。
 隣のクラスの子に告白された。

 おじさんは面倒臭そうに、それでも話を聞いてくれる。
 僕はきっと、彼に父さんの幻想を見ていたんだろう。顔は似ても似つかないけれど、吸っているタバコは一緒だった。おじさんが隣に腰を下ろすと、父さんと同じ匂いが漂ってくる。

 「ねぇ、おじさんはいつ、幸せの才能がないって気が付いたの?」

 ある時、僕が尋ねると男はいつもよりずっと面倒臭そうな顔をした。

 「さあな、覚えてないよ」
 「教えてよ」
 「覚えてないって言ってるだろ」
 「だって気になるんだ」

 噛み合わない会話に先に諦めるのはいつだっておじさんの方だった。

 「ある朝起きて、ふいに気付いたんだよ。あれ? 俺の人生ってこんなもんだったか? ってな。
 もっと遠くまで、もうちょっとばかり高いところまで行けるつもりだった。ガキの頃はなんの疑いもなく信じてた。大人になるころには夢が叶うもんだと思ってたんだよ。
 けどな、ふいに気付くんだよ。ああ、自分は失敗したんだってな。それで、夢見てた幸せが手に入らないもんだって思い知らされるんだ。
 ようするに、それまでの自分はいい年こいて夢見がちなガキのままだった。ある朝ふいに大人になって、それで分かっちまう。今のまんまで、この日常で幸せだって思えないやつは、ずっと幸せにはなれないんだってな」
 「むずかしいね」

 僕は唸った。

 「大人になりたくないな」

 少なくとも子供のままでいるうちは、夢を夢だと知らずにすむ。ずっと夢を見てられる。
 僕自身の夢見る世界がありえないものだと気付いているけれども。




 いつもの場所で酔っぱらったおじさんが倒れているのを見つけたのも、はじめて会った時と同じように12月の寒い日のことだった。
 街はクリスマス飾りで溢れかえり、街頭スピーカーも一日中、鈴の音とクリスマスソングを流している。
 おじさんはすっかり酔いつぶれていた。近づくとタバコの臭いよりも酒の臭いが鼻につく。

 「おじさん、ねぇ、そんなところで寝たら死んじゃうよ」

 僕はおじさんの肩を掴んで揺り起こした。
 おじさんは暫く唸っていたけれど、やがて薄く目を開くと、僕に気がついて息を吐いた。

 「いいんだよ。今日は久しぶりに幸せな気分なんだ」
 「でも」
 「分かるだろ? なぁ、俺は幸せなんだよ。だから今がいい。今がいいんだ」

 僕は俯いて黙り込んだ。
 きっと僕は少しばかり期待していたんだろう。
 僕があなたの生きる理由になれないか。近所のガキの下らないお喋りに付き合うことが、彼を引き止める理由にならないか。
 答えはNOだ。
 だって僕は、父さんが留まる理由になれなかった。
 母さんが必要とする僕は、決して負け犬にならない優等生で、それは本当の僕じゃない。
 僕はいない。
 誰の中にも僕はいない。

 「じゃあ僕もここにいる。おじさんと一緒に影んぼになる」
 「駄目だ」

 おじさんは優しく首を振る。

 「言っただろ。俺は今、幸せなんだ。だから邪魔しないでくれ。一生に一度の最高の気分なんだよ」

 僕が泣きそうな顔をすると、おじさんは柔らかく微笑んだ。

 「家に帰れ。そんでもうちっとだけ生きてみろ。諦めるのは大人になってからだっていいだろ。もう駄目だって思った時には、ここに来て隣に座ればいい」
 「その時までおじさんは待っててくれる?」
 「そうだな、お前さんがそういうなら、あと10年くらいは待っててやるよ」
 「……分かった」

 僕は頷いて立ち上がった。
 優等生の僕は今すぐ救急車を呼んだ方がいいと言っている。影んぼなんてものはない。そんなものは幻想で、このままおじさんを見捨てたらきっと凍死してしまう。
 でも僕は、優等生じゃない僕は、おじさんの幸せを願って歩き出した。




 その後も、影んぼはずっと同じ場所にいた。薄くなったり濃くなったり、大きくなったり小さくなったりしながらも、ずっとそこに在り続けた。
 僕は時折、影のかたわらに腰を下ろすと、静かに時間が過ぎるのを待っている。
 喧騒ははるか遠く、クリスマスソングも届かない。
 大きな街の暗がりの、誰も見向きもしない場所。
 でも僕には、ここだけが。
 影んぼの隣にいることが、一番穏やかな時間だった。


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