25年間を生きたわたしに祝福を
この日がずっと怖かった。お兄ちゃんが亡くなった歳に追いついてしまう日。あと2時間で、ついに、やってくる。
お誕生日は祝福の日だけれど、8年前からはプレッシャーでしかなかった。年々近づいてくるXデーが重たくて重たくて。8年後の自分がどうしても彼より優れたひとになっているとは思えなかった。
いい大学に行って、いい勤め先を見つけても、結局死んでしまう。8年後のわたしは生きているんだろうか。この世界で生きていきたいと思えているだろうか。
家族や親戚、ご近所さん、事情を知る知人たちは、「お兄ちゃんがいたらよかったのに」とがっかりしていないだろうか。そんなわけないじゃん!と言われても、納得できないのはわたしだった。他人のことばが欲しいんじゃない。自分のなかで折り合いがつかない。
彼が勝手にひとりで死んでしまったことへの憤り、助けを求めてもらえなかった寂しさや虚しさ、あのときの自分にもっと力があればという無力感、もうここにはいないんだということを未だに受け容れられない苦しさ、なにもかも変わらずここにある。
もしかしたら、ずっとこのままかもしれない。ずっと苦しくて、ずっと悲しくて、ずっと不安が付き纏うのかもしれない。それでも、25歳を閉じていく今のわたしは、8年前よりもずっと「生きている」と思う。
以前のわたしは、「生きている」というよりは「死んでいない」という状態だった気がする。生きるか死ぬかの選択で「生きる」を掴み取ったわけではない。「死ぬ」までの勇気を出して思い切ったことができていないだけだった。自分で決断して生きていたわけではなかった。
けれど、いつのまにかわたしは「生きていた」。どんな感情も蔑ろにせず、大事なものをわがままに全部抱きしめて、全部大事に守ろうとして、もがきながら溺れかけながら必死に生きることを選択し続けるわたしになっていた。
今日まで、生きててよかったなあ。
そう思えるわたしになれたことが、ほんとうに嬉しかった。自分の人生を生きたいと、自分で舵を切りたいと諦めなかったわたしがいてよかった。崩れそうに壊れそうになった日々もたくさんの愛がいつもわたしの周りに溢れていた。
もう誰も死なないでほしい。そんなことは不可能だとわかっているけれど、大好きなひとたちとずっと一緒にいたいという願いはわたしの真ん中にある。不可能だとわかっているからこそ、ここにいてくれている今を大切にしたい。
26歳のわたしは、もう自分の手のなかに必要なものをすべて持っていると知っている。軽やかにしなやかに人生を楽しんでいれば、望んだ結果がついてくると信じている。わたしの周りには、愛をもって接してくれる大切なひとがいることが見えている。26歳のわたしは、もう大丈夫。
25年間を生き抜いてきたわたし。ずっと諦めずにいてくれてありがとう。もがき続けてくれてありがとう。これからのわたしも、ずっと今日までのわたしのことを忘れない。ずっと糧になる、大切な日々だった。今日までの毎日に、心からの祝福を。
もっといのちを輝かせて、もっと広く高いところへ。心地いい風が吹く、見晴らしのいいところへ。この気持ちを抱きしめて、明日も生きていきたいと思う。
おやすみなさい。
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