東大入試と医学部入試で考える、教育と就労のギャップ問題

 前の記事はなかなか好評だった。東大生は全員頭がいいのだが、東大入試で使う頭の良さと実社会で使う頭の良さはかなりの乖離が存在し、だから東大生が社会に出ても有能とは限らないという現象が起きる。これは主に東大が学問の府であり、サラリーマン養成所ではないという理由に端を発している。

 それでは医学部はどうなのか?リクエストがあった。私の中での結論は決まっている。医学部入試は完全なクソゲーであり、受験生を選別する以外の機能を持っていない。実際、医学部の出身者は東大卒ほど受験勉強への好感度が高くないし、むしろ無意味な苦行として捉えていた人間が多いように思える。

 東大入試はじっくり取り組んでみると楽しいものだ。高校範囲に限られているにもかかわらず、そこには奥深い知の美しさがある。科学五輪や超進学校の入試問題にも似ている。東大生の多くは入ってから何がやりたいか曖昧な状態であるため、どんな勉強であれ、無意味とは感じない。漠然とした未来に向かって学問的な知を積み重ねていく感覚である。入ってからも教養課程は高校の勉強の延長線上なので、ジェネラリスト的な人間が点数が高いし、勉強する内容も実のところ東大入試の延長線上だったりする。教養英語は学生から評判が悪いが、扱っているテーマ自体は結構面白いものだった。少なくともTOEICのクソみたいな英語とは全く違った。もっとまじめに勉強していればよかったと思う。

 とにかく、東大は進路が不確定がゆえに教養主義的な入試との親和性が高く、そこには純粋に学ぶことの楽しさを追究する機会が与えられているのである。あとは入ってからやりたい分野を見つければいい。「医学部に言っておけば」という東大卒はよく見るが、東大入試に関しては良い思い出だと考えている人間は多いのだ。

 一方の医学部はどうか。医学部入試は東大入試のような楽しさはない。医学部に進学した同級生も優等生タイプや陽キャタイプが多く、純粋に知的探求心で勉強しているタイプはあまりいなかった。医学部入試の勉強があくまで社会経済上の地位をゲットするための関門に過ぎない。例えば医学を学びたくて仕方がない学生にとって、高度な数学や物理を勉強することを要求されるのは苦行でしかない。入試が終わったら二度と勉強したくないだろうし、語るとしてもせいぜい偏差値自慢に留まる。逆に数学や物理が好きで得意な生徒の場合、医学部の勉強は暗記主体のつまらないものでしかない。

 要するに、医学部の場合は学びたい学問が決まっているため、大学入試はクソゲーでしかない。数学や物理は入学の手段でしかなく、出題側もおそらく受験生を振り落とす手段としか考えてないだろう。私立医学部の奇問などはその例と思われる。

 これまた以前の記事で医学生と東大生が途中で逆転するということを説明した。18歳時点では東大生の方が多くの選択肢を持っているのだが、24歳の時点では医学生の方が多くの選択肢を持っていることが多い。この時期のズレは入試にも表れている。

 東大生と医学生に共通するのは「教育と就労のギャップ問題」だ。

 医学生にとって医者になるために数学や物理を勉強させられるのは矛盾している。ただし、入学してしまえば一切の問題はなくなる。医者になるために医学の勉強をし、国家試験を受けるという行為は何一つおかしいところはない。医学部生が「医学を熱心に勉強しました」といっても否定されることはまずない。その後の進路もある程度国に保障されているので、一生安泰である。教育機関と同様に医療業界は市場原理が働きにくく、資本主義の猛威から逃れることができる。

 一方の東大生はどうか。在学中はいいのだが、いざ就活段階になると、やはり教育機関で学んだ内容が社会で通用しないという壁に突き当たる。文系の就活においては学業を語るとマイナスになる時があるし、社会に出ても文系学問は約に立たない。それどころか、文系大学院に関してはキャリア形成にマイナスだ。文系学問の奥深さに触れてしまうと社会で働くのが馬鹿らしくなってしまうからだ。高学歴難民問題はこう言ったところに端を発している。理系にしても、若干マシというだけで、問題の根源は変わらない。博士課程の人間が企業で酷評されることは珍しくない。数学科で高等数学を学んで金融機関に就職し、ブルシットジョブに苦しむという話もよく聞く。大学の教育に興味を持っている人ほど、就活時になにやら理不尽な思いをすることは多いだろう。

 要するに、東大は学問の府ではあるが、就労に関しては何も用意がされていないので、社会が求める能力との間に乖離が生じるということである。サラリーマンには東大生の持っている高度な思考能力は生かす機会が少ないし、ましてや学術的興味を満たすことも難しいだろう。企業側も学術的探求心の強いタイプよりも体育会系の方を明らかに好む傾向がある。

 こうして整理すると、東大生と医学生の違いはギャップ問題に大学受験の時に直面するか、就活の時に直面するかという点だろう。医学生は人生の選択肢を早めに切る決断をしているので、その分ギャップ問題を早めに乗り越えている。東大生の多くは進路が不明瞭なので、遅くにギャップ問題に直面する。中には博士課程などでいつになってもギャップ問題を超えられない人間もいる。

 しばしば東大生よりも医学生の方が結婚が早いという話を聞くが、個人的にはこれは医師の経済力が理由ではないと思う。医学生の方がたぶんライフステージの決断が早いのだ。東大生の多くはモラトリアム要素があり、同様のノリで結婚も遅くなってしまうのだと思う。

 さて、こうした教育と就労のギャップ問題はなぜ生まれるのか。それは経済界における教育の位置づけの難しさにある。教育は公共財であり、市場原理によって生まれたものではない。どうにも教育や学校や学問というものは資本主義との相性が良くないようなのだ。公教育を民間丸投げにしている国は聞いたことがないし、大学も私立大学より国立大学の方がいろいろな面で優秀だ。社会主義国は経済水準の割には教育で多くのことを成し遂げている。

 教育カリキュラムは常に教養主義と実用主義をめぐる終わりなき議論の中に置かれてきた。しばしば型にはまった偏差値教育ではなく、より主体的に考える力を養う教育を行いたいという人間がいるが、どうにも理想論だ。経済界が求める人材に果たして自由な発想力がある人間が求められているのか。教育に携わる人間はメンタリティからしてビジネスマン向きではないことが多く、教育改革も見当はずれの方向に行きがちだ。

 未成年者は将来何になるかが全く分からないポテンシャルの存在である。だからこそ、直接役に立つとは限らない雑多な項目に触れる必要がある。子供に習い事をさせる親はなにもプロにするために習わせているわけではないだろう。それと同じだ。教養主義はこうした未成年者のポテンシャルを涵養している面が大きい。

 一方で令和の日本はタイパ社会になっており、一刻も早く一人前にならなければという圧力が強くなっている。この場合は早期から実用主義的な教育を受けるべきだという話になる。原因の一つは社会の高度化で若者に求められる技能が増えすぎたことにあるかもしれない。最近は英語や情報技術など、社会に出るまでに学ばないといけないことが増えすぎたので、教養を深めている時間はなくなった。教育内容が増加している一方で、企業の定年や結婚の限界年齢は伸びていないので、文字通りカリキュラムを詰め込む人生になっていくだろう。

 教育機関は資本主義の登竜門ではない。したがって、勝ち組になりたければどこかの段階で就労とギャップを乗り越えなければならない。勉強嫌いの生徒であれば勉強から解放されるので楽かもしれない。しかし、東大や医学部に合格するような生徒であれば相応の向学心が持っている人が多いから、しばしば苦しい思いをすることがある。「学校の勉強は社会で役に立たない」といった趣旨のセリフが昔の青春ドラマには良く出てくる。これは不良にとっては福音であり、秀才にとっては呪いだ。社会に出てから鬱屈した思いを抱える高学歴は、ある意味で管理教育に反発する不良と同じ心境なのかもしれない。


 

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