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リーダーって

『弔意とは故人が亡くなったことによる自分の悲しみ・弔いの気持ちを意味し、弔慰とは、遺族に対する哀悼の意や態度、物品等を意味します。』
「弔意 弔慰」をキーワードにググった時に最初に出てきた結果です。

安倍前首相が凶弾に倒れ、その国葬を行うにあたり世の考えがいろいろに分かれ賑やかになっています。

弔意があるか、もしくは表すか。それは人の心の問題だ。だから国葬への出席を強制はすべきでない。そうおっしゃる方がいます。ほんとその通りです。
ただ、近しい人が亡くなった時に通夜や葬儀に参列せず香典のたぐいも出さないのは、一般的にはそう無い話。(家族葬が増え、これも一概に言えなくなってますが)

世を賑わせているのは、公的な立場の方がそのグラデーションの中でどう振る舞うのか?って話です。そして悩まれた末の結果を示されてます。そして外野は言いたいことをそれぞれに呟き、またはオフィシャルに論説する。

そんな中で思うんですよ。
毅然として「故人に公的に弔意を示すために出る」とか「他で弔慰をしたので今回は出ない」と言い切られてはどうでしょうか?と。そう進言したくもなるケースをちらほら見るんです。
そんなに出欠するかで内部で揉めてるんなら、花をたむけ次第帰ってしまったらどうですか?とか。
他に公的な弔慰の場があればよく、もしそんな適切な場がないなら故人を偲ぶ会でも設けリャいいじゃないか?とか。

苦渋の選択だった、なんてことは言わずもがななんです。よく分かります、そのお気持ち。その上で決断し表明せざるを得ず態度表明しているんですから。
だから苦しそうな顔して会見などせず、胸を張ってほしい。そう願ってやみません。「実は苦しいんだ」は後回しにして欲しいんです。

でもそんなことができる人、そうそう多くはいないんでしょうね。勇気と覚悟のいることだと思いますし。
僕らは勇気や覚悟を示す必要に迫られるような機会が多くない社会に暮らしてますしね。できるならそんなことからは離れていたい、そんなみんなの願いを叶えるかのような社会で。平和でもありぬるま湯でもある。そんな社会なんですもん。

覚悟を示して突き進むには、その時点から他の意見に耳を貸さないくらいのことがいるのでしょうね。
でもそんなことを最初からしてしまうと、選択肢が狭まってしまいます。
リーダーにはこのバランス感覚もきっと必要になるんでしょう。
リーダーしているうちに自然と備わりそうな気もしますけども。

さて、他の皆さんのように言いたい放題言った最後に考えてみます。
自分がその立場になるとどうなるのでしょう?
僕も外野で見物してるからこそ言えるだけのかもしれません。僕が当事者だったらこんな考えに辿り着かないかもしれませんし。岡目八目。

  • 自分は仲間の意見に耳を傾け、意見を聴き集めることができるのか?

  • それらを集約してから決断できるのか?

  • 自分の下す決断に、仲間が納得してくれるのか?

  • 決断した後、毅然と振る舞えるのか?その孤独とどう向き合うのか?

  • もしも仲間の意見の大半が感情的になっていて理に適っていなかった場合、自分は理に適った決断ができるのか?

理に適った判断はできるかもしれませんし、毅然と振る舞うことはできるかもしれません。もし判断が誤っていたなと後々思えば、それを公表することもできそうな気がします。
でもその他の項目については、一匹狼的に生きてきた僕には務まるかどうか怪しいですね。
リーダーのポジションは一度やってみたいなとは思いますが、そもそも、人が僕に任せようと思うかどうかのフィルターがその前に入ります。だからその機会が巡ってくるかは怪しそうです。

協調性レベル診断とやらを遊びでやってみたんですが、結果がモロにそれを示してくれてます。笑

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