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こころのありよう

今日は私の母についてお話しします。

母はとてもおっとりした性格でして、人に向かって強く言うことができません。そりゃもう全然できないんです。時々思い出すんですが、私が小学生の頃、靴の訪問販売が時々家に来ていたんですが、母はその人のことをいつも断りきれませんでした。そして30分程経ち困り果てた末、幼い私がなぜか決まって呼ばれます。「要るものがないし買わなくてもいいんじゃない?」という旨のことを幼いながらに遠回しに言う私の声を聞きながらも、結局は“松竹梅の竹“のサンダルを買ってしまう。そんな人です。
私はそんな母から愚痴をこぼされた記憶はあっても、叱られたり怒られた記憶がありません。忍耐力がすごいのか、単に諦められてるだけなのかはよく分かっていませんでしたが。

今日はそんな母の命日です。早いものでもう15年が経ちます。

膵臓がんでした。膵臓は『沈黙の臓器』と言われるそうで、見つかった頃には手遅れだということが多いようです。また、体の中の奥まった所にあるため治療が困難なことも多く、除去手術は半日近くかかるともともいわれます。

母はたまたま受けた検診で初期のものが見つかりました。精密な検査を繰り返した後に手術を行ったのですが、残念ながら転移が進んでおり、時既に遅し。除去することができずただ腹を開けて塞ぐだけに終わってしまった短時間の手術の後、化学療法を行うも進行を食い止めることはできず、発見から1年足らずのうちに他界しました。55歳でした。若かったことで進行も早かっんだろうと思います。

母の癌が見つかった時、私の妻のお腹には1人目の子がいました。程なくして生まれましたが、その時母は治療のため孫に会うことができませんでした。母はその分を挽回するかの如く、生後1ヶ月のお宮参りと百日祝いの際には遠路遥々飛行機でこちらに駆けつけて来ました。百日祝いの際には母のたっての希望で、梅の花が咲き誇る太宰府天満宮へと皆でお参りにも行きました。

ただ、その頃病は既に母の体をすっかり蝕んでいて、入退院を繰り返す日々。抗がん剤の影響もあって食事も思うように摂れない状態で、歩き回る体力もありません。なので少しでもゆっくりできるよう温泉宿で2泊3日して無理せずのんびり過ごし、太宰府も行けたら行こうねと言っていました。しかし母は、私たちの心配をよそに、孫の顔を覗き込んでは嬉しそうにはしゃぎ、太宰府でも梅の花を眺めては楽しそうに歩き回り、名物の梅枝餅を美味しそうに頬張り、孫へのおみやげをあれこれ悩みながら選んで買ったり、と旅を満喫していました。食事の量や歩くスピードは確かに病人のそれではありましたが、そのこと以外は終始和やかに過ごせました。

そして両親が帰宅した後になり、私は父から聞き知ります。2泊3日の旅行の間、母は私たちのいない場所で吐き続け、悶え苦しんでいたんだそうです。そして帰宅後も。母は子と孫にはその一切を隠し通し、いい思い出を演じ切りました。

その後はこちらからちょいちょい会いに行くばかり。母は体調の優れない日もありましたが、それでも「そんなもんよ」と言わんばかりの穏やかさのままでした。私の娘が初めて寝返りしたのは母の入院先のベッドの上でしたが、その時もコロコロと笑っていました。そして私たちが帰ると、途端に父の前で激しく苦しむのです。

そしてそのまま、苦しい姿を私たちに見せぬまま、私には父をよろしくとの言葉を残し旅立っていきました。

完治を期待した手術が成功に終わらなかった後、私たち家族は皆同じ気持ちで、前だけを向いて最後まで歩き続けました。ですので、実は母と振り返って話をすることがあまりできませんでした。ちょっと心残りではあります。できれば積もる話ももっといっぱいしたかった。でもしなかったし、できませんでした。
しかし、後悔はありません。私たちには母がたまたま残してくれたものもあるので。

母は亡くなる1年程前からブログを書き始めていました。そのブログが今も残っています。母からの置き土産となっていて、命日の時などに時々見返しています。

好奇心が強かった母は昔から母親友達といろいろな文化教室に通っていました。その当時はパソコン教室に通っており、教室仲間みんなで一斉にブログを書き始めることになったんだそうです。何気ない日常を綴ったブログを母は息子にも紹介し、パソコンの使い方が分からないからとこちらに都度連絡を寄越して来ながら、撮った写真をパソコンに取り込んだり、日々ブログを更新したりしていました。病が発覚したのはブログを始めてしばらく経ってからでしたので、ブログには病のことも綴られています。

このブログの中で、私にとって特に印象的な投稿があります。ここで紹介させて頂きます。

時間・・・

病気が分かって、ひょっとすると自分には残された時間に限りがあるかも知れないと思った時に(こんな風に書くとえらく悲壮感が漂うから嫌なんだけど、実際は私だけじゃなくてみんな同じで限りあるので意識するかどうかの違いだけ)自分の中でいろんな事がとても印象深く胸に刻まれるようになりました。

今までは何となくやり過ごしていた事が意味深い様な気がするのです。
何事も充実しているのです。たとえ嫌いなお掃除やお片づけにしてもです(^^ゞ
ご飯を食べても別に豪華ではなくても例えお茶漬けだったとしてもその一回が貴重であり、ありがたく頂戴できれば満足に感じます。

私の実母は三十年ほど前に大腸がんで亡くなりました。
その頃は本人には勿論告知などしていません。
でも母は分かっていた様でなってしまったものは仕方ないと言うような事を私に言っていました。
そして周りにグチひとつ言わないで逝きました。52歳でした。

私もすでにその歳になり母と同じ様な立場になりました。
今は病名も知っていますし、だったら前向きにと思い
また母のようにもありたいと思います。
今の私の身体の状態は宣告前も後も変りはありません。
こころのありようだけが違います、それをかみしめています。

週末はちょっと外泊でお家に帰ります。
何食べようかな、楽しみです(^^ゞ 

母が私たちの前で気丈に振舞っていたのは、自分の母の姿を見ていたからでした。母の母が亡くなったのは私が3歳、弟が1歳の時。きっとどこかに頼りたかったでしょうが、一人っ子だった母は親元から遠く離れた所に住んでいたこともあり、そうも行かなかったはずです。その頃の苦労を生前息子達に話すわけでもありませんでした。母は母からのバトンをずっと受け取ったままだったのです。母は強かったのです。

10回目の命日を迎えた5年前の今日、私はそのような強さを発揮することはできず、渡辺美里の10 yearsの曲を聴きながらいろいろな思い出を振り返り、誰に打ち明けるでもなくただ涙を流すだけでした。その後も毎年変わり映えしないまま過ぎ去っていきました。

そして丸15年を迎えた今回。母が亡くなる歳まであとちょうど10年となりました。今はあとたった10年しかないのか、と母が感じたであろう無念さに想いを馳せています。そして母が祖母から受け取ったバトンを心に感じながら、母が辿り着いた「こころのありよう」に少しでも立てるように、母よりも少しでも長く、そして少しは踏み出せるようになったろうか。そんなことを感じています。

冒頭の写真は、母が自らを撮りブログに載せたものです。


そんな母から、生前何度となく謝られたことがありました。今から21年前、私が消化器系の病に罹った時のことです。下腹部に大きな腫瘍ができました。当時私は就職して半年ほどで、土地勘のない福岡にいたため地元に帰って手術を受けることにしたのですが、母は癌家系であることの後ろめたさから「私のせいだ、ごめんね」と言い、消化器系のありとあらゆる検査を私に受けさせました。
手術で摘出した腫瘍は1200gとキャベツ大の大きさで、小腸も一部一緒に切除せざるを得なかったため私は術後1週間絶飲食となり、結局入院1ヶ月、自宅療養1ヶ月を過ごしました。その間もとても申し訳なさそうに何度も謝られました。
子を持つ身となった今となっては、この時の母の気持ちがよく判ります。

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