煩悩との関係性について
昨日は久しぶりに休暇をとり、やりたいことをやろうと思っていました。何をしようか迷った末、ここのところ仕事で心が暴れたり荒みがちだったので、図書館で本を借り喫茶店でお坊さんの本を読み耽りました。
高野山で学ばれたお坊さんのお話でしたが、1つ目から鱗なことがありました。煩悩は捨てられない、共存し乗り越えるものとだ、というのです。
確かに、妬みであっても欲望であっても、自分の心に浮かび上がる気持ちは自分でコントロールできないので、消すことができません。ひょっとすると修行により浮かび上がること自体をコントロールできるようになるのかもしれませんが、ともすると今度は楽しさや幸せも感じなくなってしまうことになるのでは?悟る意味ってあるの?境地に至る意味あるの?と思ってしまいます。
これまでのイメージでは、心の振れ幅とは波の高さで、悟ることでこれが凪になる、というものです。よくよく考えてみると、凪になるということは楽しみや歓び、幸せまでも感じない、ということのように思えてきます。
仏教については全くの無知ですが、衆生を救うためにある仏教の目指す到達点がそんなところにあるとは思えません。改めて考えると、仏教が目指しているのは衆生救済であり、これってとんでもなく大きな他利の欲望の塊なのではないでしょうか。その志について考えてみると、確かに煩悩は消したり捨てたりするものではなく、うまく付き合いより良く使っていけるようになること。それこそが目指す到達点なのではないか、と思ったわけです。
煩悩は108つあると言いますが、どんなものがあるのか?ここまできた時、今まで考えたことがないなと気付きました。興味が湧いてきましたよ、これは。
そして昨晩は初めて瞑想をやってみました。コテンラジオを通じて知り合ったいたみんさんの指南を受けてのトライです。これがまたよかったですね。
自分の感覚に向き合う。考えるのではなく感じる。最近は体を動かす時、イメージ通りに動かそうとする余りどうしても頭でっかちになりがちだったんですが、久しぶりに感覚重視の体感が得られました。子どもの頃や学生時代の部活の時はこんな風に体の感覚を頼りにしていたな、と思い出しました。
色々と有意義な1日でした。
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