見出し画像

長く続く企業のお話 石村萬盛堂

『九州の百年企業』
たまたま訪れた美術館のカフェコーナーで腰掛けた席の横にあった本棚を見て、ふとこの本を手に取りました。パラパラとめくってみると、名前を聞いたことある企業がいくつか並んでいます。フンドーキン醤油、シャボン玉石けん、原三信病院、亀の井別荘、久原本家グループなどなど。全部で20社余りありましたが、私のアンテナがピクンと立ったのは石村萬盛堂でしたので、これについて書いてみようと思います。

石村家は黒田官兵衛に付き従って備前藩岡山からやって来た宮大工の家系だったそうです。明治に入った頃、石村善太郎さんは宮大工の仕事がそんなにあるわけでもなく、神仏にお供えするお菓子はみんな手を合わせてくださるとの理由で菓子職人を志します。

善太郎さんが対馬で修行したのち博多に帰り着き創業したのは、日露戦争後のポーツマス条約で勝利に沸く頃。博多の総鎮守である櫛田神社にお供えしたんだそうです。

当時は博多の和菓子屋が扱っていた卵の黄身を使うお菓子、鶏卵素麺を売っていたそうです。が、多量に余る白身を活用すべく、マシュマロに注目。そして紅白のマシュマロに黄身あんを詰めたお菓子を売り始めます。今も石村の代名詞である「鶴乃子」の誕生です。大正元年(1912年)から博多駅でお土産として販売が始まります。

マシュマロの製造技術を日本に伝えたのは佐賀県伊万里出身の森永太一郎さん。森永製菓の創業者です。石村善太郎さんは森永太一郎さんからマシュマロ製法を直伝されたそうです。鶴の子はまさに和菓子と洋菓子の技術が結晶した逸品となります。

善太郎氏は競争することをよしとせず、勉強することを求めました。結果、独特の丸い卵形の箱に辿り着きます。

しかし、福岡の街は太平洋戦争の際に焼け野原となりました。お店を継いだ善吉さんは疎開先で生き延びますが、お店は跡形もありません。博多に戻ったあと、それでもやっぱり菓子業だと奮起し、昭和21年11月、茶房鶴乃子を開店。当時大陸からの引き揚げ者たちの間で好評を博して繁盛します。砂糖が手に入らない時代、国民体育大会が昭和23年に開催されることを後押しにしながら、その翌年に株式会社石村萬盛堂を設立します。

その後、僐悟さんがお店を継ぎ、需要を創り出すことに注力します。その一つが3月のホワイトデーです。昭和53年に始めたマシュマロデーのキャンペーンがブームのきっかけになりました。当時、男性はチョコをもらうばかりでお返しする習慣はなかったそうです。ある時僐悟さんは雑誌の女性の声を頼りにマシュマロデーを企画して大成功します。

その後、洋菓子のボンサンクも立ち上げ、事業拡大していきました。

僐悟氏は「続いているお店には、心の部分、思想、人生観が残っていき、これが家訓となる」と言い、心の伝承として3つのことを紹介しているそうです。

①言葉を仲立ちとした体験の共有。ある言葉を同じ場面で体験し、共有することで伝わる。
② 二宮尊徳の言葉「胸中の温気」。思想や哲学、経営方針などは書き物にすると死んでしまう。氷になってしまった言葉を溶かし、有用な水にするには、言葉を読む一人ひとりが胸の中に熱い思いを持つかどうか、それが問われる。
③ 近江商人の店の多くが家訓とする「先義後利」。義を先にして、利を後にする。

石村のお店にはイートインコーナーがあり、よく家族で訪れゆっくりと洋菓子やお団子など和洋問わずお菓子を頂いたりしました。最近はコロナの影響でご無沙汰ですが。また、亡くなった母が鶏卵素麺が好きでしたので、帰省する際にはいつもお供え物として手土産に持っていきます。

石村さんはそんな身近なお店です。その石村さんのストーリーに触れられて、ちょっと心豊かな気持ちになれました。

街には洋菓子が溢れ、そして美味しいものも多くありますが、たまにはそんなお店で昔ながらのお菓子を楽しんでみてはいかがでしょうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?