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パプア話

パプアはマレー語で「縮れ毛」であるらしい。

働くことの人類学
というポッドキャストを拝聴。

めちゃめちゃ面白かったので何かしら書いてみようと思う。

パプアニューギニアのニューブリテン島(ラバウル)でのはなし。

そのニューブリテン島の人々は貝殻のお金を「未だに」使用しながら生きている。

「未だに」とは僕ら日本人または一般的な先進国の人間から見たときに、そういった紙幣/硬貨以外のモノをおカネとして「まだ」使用している感覚。

原始社会での物々交換の延長線上であり、紙幣/硬貨を鋳造するシステムが「未だに」できていない。すなわちこの「未だに」という感覚はニューギニア島の社会は我々の近代社会よりも「遅れている/劣っている」そういった感覚が無意識の間に植え付けられているのではないかと思う。


もう少しニューギニアについてみてみる。


実はニューギニアではいわゆる紙幣/硬貨を普通に使用されている。何か買い物、スーパーに行く際に普通に現金で買い物したりする。先進国と同様な貨幣経済は回っているようだ。


したらどのタイミングでその貝殻のお金が必要になってくるのか。どうなんだろう。


ニューギニアで生きていく上で、それはいわゆる「通過儀礼」に必要となってくるらしい。


例えば20才になった成人式、結婚式、そして葬式、、


それらの通過儀礼の際にいかに「貝殻のお金」を献上するか、貝殻のお金があればあるほどその人は偉大であり、尊敬されるべき存在となる。


ニューギニアの人々にとって「貝殻のお金」を集めることは、その人生でとても大切なことであり、目指すべきことである。


ここで一旦考える

ニューギニアの人々は各国同様普通に買い物したり、サービスを利用したり、市場経済の中で暮らしている。それとパラレルに「貝殻のお金」の経済があり、二つの経済が相矛盾することなく回っている。


「貝殻のお金」の経済はいわゆる昔からの伝統、そのコミュニティでのしきたり。


伝統と革新のバランスがすごいなと思う。


特に先進国になるにつれて見失いがちな、人生における絶対評価軸を全員が共有できていることはめちゃめちゃすごい。


「何が一番大事なことなのか」


ニューギニアにおいて、家族のために時間を割くことが何より大事であり、会社に勤める・お金を稼ぐことは二の次である。


「家族のために捧げること・そのコミュニティで貢献すること」が人生の大きなテーマであること。


日本について考えてみる。


人々は高校/大学を卒業して、何の迷いもなく「働く」ことを選択する。


ある人は公務員、ある人は会社員となる。


会社で労働力として奉仕する。

お金を手に入れる。

お金を消費する。↑


この閉じたループを死ぬまでひたすら繰り返し続ける。


「働くこと」自体が目的になっている日本(他の国もありそうだが)


一体何のために働くのか。金銭を獲得、消費ループの人生って楽しいのか。


そういった中でニューギニアでの話を聞いて、羨ましくもなった。


明確に人生の目標が決まっていれば将来についていろいろ悩む必要もないし、恐らく人生が泥臭くも生き生きしそうな気がする。


「選択する」


経済が発展するにつれて、選択の自由は手元に落ちてくる。ただそれと同時に責任も付いてくる。


選択するには情報と思考が必要。それは普通に大変だし、正しかったかどうかも振り返ってみないとわからない。


情報あふれる世の中において、選択肢は無限である。その中の一つを「選択する」ということは恐怖でしかない。本心で言えば選択なんかしたくない、もしくはある程度選択肢を絞ってほしい。


ニューギニアでは、すでに人生のテーマがほぼ決まっている。各人はひたすらそれを追求するのみ。選択権はないが、普通に充実しそう。


ただそれってあくまで「想定内」な人生になる感じがしてて


日本における、ある程度の選択の自由がある環境はややもすれば


自分で、自分の価値、人生における目標を定めることができる。


「想定外」を目指すことはできる。社会からどうなるかは置いといて。


それって難しくもありそうだが、楽しくもありそう。


ただ答えは恐らく出ない気もするので、一生突き詰めていく必要があるんかなと思う。


すげえパプアニューギニアに行きたくなった。