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愛と死の人類学だって

愛と死の人類学

ポッドキャストで「愛と死の人類学」ってやつがあるんすよ。これは実はシーズン2で、去年は「働くことの人類学」というテーマで。


とりあえずめちゃくちゃおもしろいんすよ。

愛と死っていうのは結構難しい問題であるというか。なんか人間は社会的な動物だから人間ってひとりでは生きていくことはできないじゃん。絶対誰かしらの助けがないと生きていけないし、家族とか親族とか、知り合い、友達も含めて。ただ人間はそういった社会的な動物である一方で、人間一人としての意識は存在していると。つまり人間一人ひとりは独立した生き物である一方、複数人とやりとり、コミュニケーションを取らないと生きていけない生き物である感じ。

感覚として、人間って二つの社会を同時に生きている気がするんですよ。一つは自分一人の意識を中心とした社会と、他人とコミュニケーションを中心とする社会。いわゆる前者がプライベートな社会で後者がパブリックな社会。ただ正直その二つの社会の境界ってめちゃくちゃ曖昧で人によって多分全く異なるんだろう。その二つの社会をパラレルに走らせつつ、互いにやりとりしながら、常に葛藤を抱えながら生きていく生き物なんだよなーとポッドキャストを聞いてたら思いますね。

トークでは葬式や結婚についてのはなしをしていたんだが、確かに例えば結婚するときに婚約指輪をわたす、それは給料の三か月分とかよく言われる。ご祝儀とか結納金ももう。これってしたら「愛をお金で買っているのか」。いやそうじゃなくて、例えば婚約指輪だったら”愛情の証”として、ご祝儀だったら”友情や感謝の証”として、結納金だったら”愛情ももちろんだが責任や感謝の証”として。これは「愛をお金で買っている」わけではなくて、それぞれの“証”として用いていると。

つまり「愛」っていうのは自分一人の意識を中心とした社会のもの、いわゆるプライベートな社会のもので、ただやっぱり人に伝えないとその愛って成立しえないじゃん。だからその人に愛を伝える。愛を公にするような。そういった愛を私から公にしていく中で、お金っていうのは重要なファクターですよね。愛をお金で買っているわけではないけど、お金を用いてその愛というものを顕在化させていく、公にしていく。指輪とか、結納金とか、それこそプレゼントとかも。

その中での一大イベントが結婚式っすよね。愛をより公にしていく。そのために「お金」を用いているんだろうな。


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自分の中のイメージ図をちょっと書いたんだが、三次元空間において公と私という領域があるとすると、公がいわゆる生活の中心になるので上にあり、私はその公の影となっている。その中で公の領域、つまり生活の中心とする領域に仕事というものがあって、一方私という領域には愛、友情、つながりのようなものがあるんじゃないかと、んでそれらを二次元平面で見たときに、公と私の領域の区別がつかなくなってしまう。上から見たら公も私もわからないし、仕事がどっちの領域にあるか、愛や、友情がどっちの領域にあるか区別できない。見方によってそれがどちらに属すか変わりうる、でその領域間を行ききするにはお金というものが必要になってくると。自分的にこんなニュアンス。そして日本社会は閉じられた公っぽいなと。


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で今回のトーライ社会における公と私の領域というものは、またイメージ図書くとさきほどみたいに三次元図、公が上にあり、その陰として私がある。そしてこのトーライ社会の特徴は公、生活の中心が愛や友情、つながりで、逆に私が仕事なんですよ。そしてその領域間を移動するのには同じようにお金が使わてれている(ただこちらはいわゆる現金貨幣ではなくて、”タブ”という貝がらのお金を主に用いている)。これもまた二次元平面でみたら、公と私の区別がつかなくなる。もう一つの特徴は公が開かれているというところで。公というものがどんどん拡大していく、それにあわせて公の影である私も大きくなっていく。公のために仕事をやる、そしてその仕事で得た対価(お金=タブ)を用いて、その愛とか、友情や、つながりを公に押し上げていく。その押し上げた分だけ、公のすそ野が広がっていく。すごい抽象度高いけどわかりますかね。てかこれが正しいのかはわからないが。


だからこのトーライ社会と日本社会を見てみると日本は公が仕事だからさ、公が広がりえないんだよね。公として仕事を行いお金を稼ぎ、それをまた私に変換し、それをまた公に変換するっていうループを永遠に繰り返してる感じ。あくまで愛や友情、つながりは公の影であり、公がないと成り立たない。まさにお金を稼ぐために生きている。

で今まで愛についてだったが、今度は死について。

トーライ社会の話に戻るけど、葬式の方法とかもおもしろくて、詳しくは聞いてもらったらいいんだが、彼らの社会では死とか弔うということは日常で意識する場面は普通にあると。

弔うことってつまりどういうことなんだって思うよね。もちろん弔うということはお葬式に行ったりして、故人の死を悼むことではあるんだが、トークの中で言っていたのは、そんなに仲良くない/知り合い程度の人の葬式に呼ばれて参加して、まあ弔うわけだけれども、正直その場においてめちゃくちゃ悲しんでいるかと言われたら、素直にハイとは言えない。一般的に悲しんだ方がいいだろうけども、でもそれって無理にやることなのか。そんなに悲しんでいない自分はこの葬式に相応しくないのではないかとも思ってしまうよね。逆に変に気を使わせてしまう。だったら家族葬とか密葬でいいやって人が増えているのもほんとそう。

死というものに向き合うこと、弔うことというのは故人を悼んで悲しむものであるのか。したら悲しんでいない自分はその人を弔うことができないのか。何をもって弔うというのか。


トーライ社会の葬式ではめちゃくちゃ盛大にやる。知り合いをかき集める。ある種お祭りのような感じ。その儀式においてもちろん悲しむ人はいるが、でも悲しむだけではなくて、その葬式に出席して、その人を思い出す。トークの中では共想起と言っていたが、その人を思い出す、ああこんなやついたなあ、みたいな。やっぱりそういう思い出し、心に想起させる、またその人の昔話する、みたいなこと。そういうこと全般を弔うこと、のような感じなんすよね。

だからそう考えると葬式の際に悲しめない自分は場違いではなく、その人を想起し、またその人たちの話をする、みたいなことが弔うことという解釈だと思うんすよ。

いやーなんかさ日本の場合だと死というものが正直公にも私にも属されていないんじゃないかと思うんだよね。それくらいまったく話題に上がらないし、いや話題には上がるけど、死というものがホントにどういうものなのかって一切触れないというか。それを考えることすら浮かばない。ほんとに市場経済のなかでのパッケージとしての死でしかないじゃん。
商品としての死でしかない。死生観とは。

宗教を信仰している人はある種死生観みたいなものは持っているだろうけど、まあ一応日本でもアニミズム的な死生観はあるっちゃあるだろうけど、そんなに意識されるものでもないし。


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ポッドキャストを聞いててそういえば大学のときにやばい葬式みたこと思い出して、夏休みにどういうわけがインドネシアのトラジャってとこに行ってたんだけど、その時ちょうど葬式やってて、そこの葬式がもうめちゃくちゃ派手で、お祭りみたいな感じ。水牛をひたすら屠殺してる、みたいなやばい葬式だったんだが。お祭りということで言えばトーライと似ていると思うが、そういう葬式のあり方とか、死のあり方、とか死とは、とか。考えさせられるよね。

もちろんその死後の世界について考えるとかそういうスピリチュアルなことだけじゃなくて、死に対する向き合い方とか、弔い方、とか。こうあるべきだよね、みたいな議論ではなくて、まず今ってどんな感じなんだっけ、とか、ね。