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アメリカン・ミュージック・ヒストリー第2章(1890年代~1920年代中頃まで・・・その6)


(4)ヒルビリー(南部アパラチア音楽)とカントリー

 アパラチアン山脈は、北端はカナダから北アメリカ大陸を南西方向に縦断し、南端はアラバマ州中央部まで(日本列島とほぼ同じ長さ)及んでいますが、ここでは、南部のヒルビリー・ミュージック(マウンテンソング、アパラチアンミュージック)の話しなので南部アパラチアン(ヴァージニア州、ウェストヴァージニア州以南)にフォーカスしたいと思います。

 イギリス系移民には、イングランド、スコットランド、アイルランド系等に分けられますが、ヒルビリー・ミュージックを語るためには「スコッチ・アイリッシュ」についての説明が必要になってきます。この人たちは、17世紀にスコットランドから北アイルランドに移民し、さらに18世紀以降にアメリカに再移民した人たちで彼らが転々としたのは宗教上の自由を求めてのことだったようです。

 イギリス人の多くは英国国教会に属していますが、この人たちは同じプロテスタントに属していても長老派の信者であり極めて非妥協的な頑固者だったためアメリカに渡っても先に移住していた人たちと同じ地域に住まず、わざわざ不便なアパラチア山中の谷間等に住みつき独自の文化を守り、他の住民と一線を画し続けました。こうした生活を続けることで母国では失われていった、故郷イギリスやスコットランド等の民謡(ブリティッシュ・フォーク)や伝承バラッドを守り続けました。また、南部アパラチアの近くには多くの黒人が住んでおり、各々が独自の文化を持ちつつも互いに影響しあったとも考えられています。

 さて、この南部の白人ヒルビリーヒット第一号は、フィドラー兼歌手の「ジョン・カースン」によるものでした。(商業録音としての第1号は、エック・ロバートソンというフィドラーでしたが、テキサススタイルのフィドラーなのでヒルビリーとは、別扱いされているようです)

 1920年のクレイジー・ブルースのヒットで南部の黒人マーケット向けのレコードが、レイス・ミュージックとして増加していきましたが、少し遅れて発売した1923年ジョンカーソンのレコードもヒットしたことで、南部白人マーケット市場向けのヒルビリー・ミュージック(田舎っぺの音楽という意味)も人気を博し発展していきました。


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