「日本占領時代、私の妹は日本人の養子になりかけていたよ」


「日本占領時代、私の妹は日本人の養子になりかけていたよ」
ある日、祖母が突然語り始めた。

来た。戦争の話を聞く時が来た。前から祖母の記憶をもっと記録しようと思っていたけど、祖母は戦争でお父さんを亡くしたので、戦争の話をするといつも泣き出してしまう。戦争の話は、聞きたいけどなかなか訊けない。祖母が話す気になるのを待つしかない。

「え?待って、待って!」と言って、スマホの録音アプリを起動した。

2021年1月12日 シンガポール
「父が拘束されたあと、日本軍は父が管理していたマレーシアのゴム農園をとある日本人の商人に引き継いでもらった。華人の妻、そう、よくチャイナドレスを着ていた、すごく綺麗な女性と結婚した日本人の商人にね」

私の曽祖父は当時、義理の兄が経営していたゴム農園の管理を手伝っていたそうだ。祖母は両親と7人の兄弟姉妹と比較的豊かに暮らしていたと、以前聞いたことがある。

そして、1943年のある日、曽祖父はゴム農園に現れた日本軍に突然拘束された。8人目の子どもはまだ、生まれて数ヶ月の赤ちゃんだった。男の子だった。

「日本人の商人は華人の妻と暮らしていた。マージェ(媽姐)も一人いた。マージェ分かる?住み込みの家政婦。髪の毛を一本の三つ編みにして、白い服に黒いズボンを履く、生涯結婚しない女性のこと」

「住んでいる場所を知っていたので、母は私達8人を連れて、彼にお願いしに行った。『夫が日本軍に連れて行かれました。どうにか解放してあげられないのでしょうか』と言ってね。そしたら彼はこう言った『もし解放に成功したら、娘を一人ください』と。子どものいない夫婦だったから」

「私は5、6歳だったので、妹は3、4歳だった。結構可愛かったよ!前髪があって、ぽっちゃりでね。『この小さい子が好き』と彼が言っていたよ。すごく気に入れられてた。それでね、母は約束した。『夫を解放させることに成功したら、一番下の娘を手放す』とね。仕方がなかったから」

ここで、さっきまですらすらと話していた祖母は、数秒間静かになった。

「でも、彼にはできなかった」
「彼には、できなかった」と、祖母は繰り返した。

「日本軍は父を解放してくれなかった。日本人の商人はね、日本軍と話してくれたようだ。『大丈夫、彼は死なないよ!』と商人が言っていたよ。『義理の兄が帰ってきたら解放されるから』とね。でもその義理の兄は、帰ってこなかったから、父は死んだ。だから妹は商人の娘にならなかったよ」

ゴム農園を経営していた曽祖父の義理の兄は、その地域では有名なお金持ちだった。今でも名前を検索すればオンライン百科事典のページが出てくる。ゴム農園などを経営していたこと、戦争時は国外に出ていたこと、マレーシアで学校を創立したことなどが、細かく書かれている。

「あの商人は日本に戻ったよ、華人の妻と一緒にね。そういえば、妻は広東系の華人で、私たち子どものためにご飯を作ってと、一度マージェに頼んでくれたの」

祖母も広東系の人で、北京語のほうが得意私とは北京語で話すけれど、普段は主に広東語を話す。この日もずっと北京語で話してくれていたのに、まるで自分と話しているかのように、一言だけ広東語で言った。「まだ覚えている。あそこで一度食事をしたことがある」と。

「二階建ての家でね」祖母はまた北京語に戻してくれた。「お父さんのいない私たちのことを可哀想だと思ってくれたのだろう。みんなまだ小さかったからね、一番上の子がまだ10代で」

ここで、録音を止めた。

人はどの時代の、どの国の、どの家庭に生まれるかは選べない。当たり前のことだ。8人兄弟姉妹の一人として生まれたとしても、違う家庭の一人っ子として、違う国で育てられる可能性もなくはない。

私はたまたまこの時代のシンガポールに生まれて、幸い、戦争を経験していない。もし生まれた時代がもう少し早かったら、もしくは違う国に生まれたら、私も上官の命令に従い、残虐行為を行う軍人になっていたかもしれない。戦争に賛同していたかもしれない。あるいは戦争で親を亡くしていたのかもしれない。命を失っていたのかもしれない。

今の私にできることは何か。

祖母の記憶をできるだけ正確に記録し、人類共通の「記憶」として伝え続けること。それが今を生きている私に課せられた戦争責任であると考えている。


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